2020/2/26
2019年8月1日号の「丹波新聞」。
“昭和20年代、丹波で生まれた詩
児童詩誌「きりん」より”
と題された連載が始まりました。
“見出し”には以下のように記されています。 戦争で焼け野原になったが、子どもの心は輝いている。美しい心を引き出し、美しい詩の雑誌をつくろう──。日本一美しい詩とお話の本をめざし、昭和23年、大阪・梅田の尾崎書房で産声を上げた月刊の児童詩誌「きりん」。
東京の理論社に引き継がれ、昭和46年に220号で廃刊になるまで、全国の詩や作文好きの子どもの心の広場になった。この間、氷上郡の児童の詩と作文が140編以上掲載された。同誌に掲載された、昭和20年代に丹波で生まれた児童詩と、「きりん」と丹波の関係を紹介する。(足立智和) 先日、その足立さんが新聞記事を添えてメールをくださったのです。
昨年7月、ここで一緒に子どもたちの詩を「きりん」の中からさがしたことを思い出しました。
メールにはこんなふうに───、 (前略)
かつて「きりん」に掲載された丹波の児童詩人を追う連載をしています。
といっても半年に1度くらいのボチボチペースで、読者から尻を叩かれています。4ページしかない新聞の1ページを全て割いた、三枝さんの綴方の反響の大きさは、驚くべきものでした。
月内をめどに、次の方を掲載する予定です。掲載しましたら、データを送付いたします。
詩や作文が書かれた時代背景、その方々のこれまでの人生、恩師も調べあわせて記事にしています。「きりんの子」を育てた教師もまた、「きりん」から詩や綴り方を学んだことが、当時の学級文集などに残っており、胸を打たれます。 (後略) 反響があったという三枝さんの綴り方は“姉さんのほうこう”です。
昭和28年1月号の「きりん」に掲載されていました。
“ほうこう”とは“奉公”のことです。
記事には、「今思えば、口べらしだったんだな」───、そう語りながら小学校4年生の自分と向き合ってほほ笑む三枝さんの写真が載っています。
作文は姉が奉公に出ていく日の朝の様子を淡々と綴ったものです。詩人坂本遼さんの「評」が、やさしく少年に語りかけています。 〔評〕
なんともいえないさびしさをもった作品です。さびしいとは一ことも書いていませんが、姉さんとわかれる「わびしさ」が、この作品のそこに、ながれています。さびしく暗いけれども心をゆりうごかされる作品です。すらすらと、かざりなく、すなおに書けた綴り方です。(詩人・坂本遼) 70年前、小学1年生の時に書いた自身の詩と対面して当時をなつかしむ女性の記事も・・・・・。
“小さかった頃の自分に対面したい──、そう願っているかつての「きりんの子」がたくさんいると思います”。
足立さんに私はそう返信しました。
いきいきとしたこどもたちの作品、そのこどもたちに寄り添っていたおとなたち。
「きりん」の世界です。
「あきらめないでください」、そう未来の自分に語りかけていた少女はその未来で、かつての自分と対面することなく亡くなりました。
報道に胸がつぶれそうになりながら、けれど、目をそらしてはならないと思っています。2020.2.26 荒井 きぬ枝
投稿者: エディターズミュージアム
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