「それにしても創作児童文学出版の道は険しかった」───。
(『昭和時代落穂拾い』より)
それでも父は歩みはじめました。1959年のことです。
1967年、東京の椿山荘で行われたパーティーのことはよく覚えています。
母と下の弟の民人といっしょに、私も参加させてもらったのです。
私は大学生でした。その頃はやり始めたミニスカート姿の写真が残っています。
そのパーティーについて、「朝日新聞」は以下のように伝えています。 (1968年4月30日付)
昨年十一月、東京で童話作家たちが主催して「理論社創作児童文学百冊を祝う会」を開いた。それは作家たちが出版社に感謝するという珍しい会だった。
創作童話を出している出版社はいろいろあるが、昭和三十三年に野上丹治・洋子・房雄の『つづり方兄妹』を出版してから約十年間、今や百冊をこえ、四月現在百二十冊も出版しているところは、まずないだろう。(後略) 父は記事の中でこう語っています。 アメリカはマーク・トゥエインを持っている、イギリスはティッケンズ、フランスはユーゴー、ロマン・ローラン、ロシアはマルシャーク、イリイン。
あの本はよかったと、こどもの時に読んだ記憶がいつまでも残る日本人の創作した本を作ってやろうと思ったのです。
パーティーで配布された小冊子が、今、私の手もとにあります。
「理論社創作児童文学100冊突破記念」
──わたしたちの気もち──
1959年このかた、創作児童文学の出版に力を尽くしてきた理論社の仕事も、百冊をこえる豊かなみのりをみました。理論社から子どもの本を出版してもらったわたしたちは、それを喜ぶ会を開きたいと思いました。
ここに集めた文章は、この会の発起人の幾人かと、子どもの本の編集者の幾人かの気もちをのべたものです。
理論社創作児童文学百冊を祝う会世話人一同
パーティーの雰囲気とともに、あの頃の父がよみがえってきます。
お二方の文章をここに
尊敬するパイオニア
実業之日本社児童出版部長 篠遠喜健
パイオニアの仕事が、どんなにあとにつづく者に幸せをもたらすかということを、実感をもって教えてくださったのは、小宮山さんです。
実業之日本社の児童出版部が独立したとき、私たちは出版の重要な路線のひとつとして、創作ものを考え、実行しました。幸い、感銘深い力作がよせられましたので、一作一作が高い評価をうけ、多くの読者に喜んで迎えられました。私は、こんなに順調に創作ものの路線がのびるとは思ってもいなかったので、うれしさを胸のそこからかみしめたのですが、そのとき、どうしても心からぬぐいされなかったのは小宮山さんのことでした。
考えるまでもなく、いまの創作ものの開花期を迎えるための準備は、全く小宮山さんのパイオニアとしての長かった道に負っているのです。その辛い、きびしい道程を私は知らず、それがようやく実ろうとしたとき、それでは私もその畠できれいな花を、といってわりこんでいったのではないか、という思いが負い目となって苦しみました。
しかし、いまでは、あとにつづく者の幸せを、素直に享受したほうがよい、その畠で、よりよい花を咲かせるのが、私たちの使命なのだと思うようになりました。
小宮山さんも多分、愛情をもって私たちの仕事を推しすすめられていくことでしょう。
これからは、私もまけずにパイオニアのひとりとなって、新たな編集の道を拓いていかなければならないと考えています。
憑かれた人
河出書房児童図書編集部長 佐東 一
ここ数年間、私は小宮山さんの創作出版活動を、たえず横目で見まもりながら過ごしてきました。編集者としてようやく一人前になりかかったころに、理論社の創作出版がスタートされたからでしょうか、小宮山さんの活躍は、つねに若い編集者の羨しさをおさえきれない大きな目標でした。
もし、小宮山さんが今日の豊かな結実を確信して、創作出版に踏みきったのであったなら、小宮山さんは実に天才的な編集者、経営者にちがいない、と思ったりしました。
ただ、天才的な経営者という表現は不適切かも知れません。経営の面では余りにも報われることの少ない、荒地の開拓を志したわけですから。
やはり、憑きもののなせる業、でしょうか。編集者としても、経営者としても、小宮山さんは、創作児童文学出版に憑かれてしまったのだ、と考えたいのです。そして、この憑かれっ放しの小宮山さんに、かぎりない尊敬を抱くのです。
いまも、小宮山さんの理論社は、数年前と同じく、私の目標です。やがては創作出版をスタートさせたい、そのためには、創作に憑かれ、憑かれっ放しになって、この大きく立ちはだかる一枚岩を乗りこえたところに、よりすぐれた創作児童文学を生みだしていきたい・・・・・と、大先輩の偉業を前に、夢は大きくふくらみます。
父のもとに集まった戦後の若い、無名の作家たち、そして画家たち───。
『ちびっこカムのぼうけん』(1961年 山田三郎え)の作者、神沢利子さんは当時の理論社の様子を同じ冊子の中でこう記されています。
思い
神沢 利子
はじめて理論社を訪れたのは、書店を探して見当たらないビアンキの「森の新聞」を買いに行ったときでした。今の営業部のある旧社屋の玄関で四冊の本を受け取って帰りました。
それから間もなく思いがけなく「母の友」に発表した「ちびっこカムのぼうけん」を出版して下さるという話がおこり、同じ社をたずねたのが二度目でした。
狭い二階の編集室には、社長であり編集者である小宮山さんがいられ、小宮山さんを中心として、児童のための新しい文学を創造していくのだという、若々しく熱っぽい空気がむんむんしていました。 (後略)
二度と戦争に向かうことがないように、そのために、子どもたちの“自立的精神”の芽生えを父とともに願った若き日の作家たち、そして画家たち。
その願いがどうか受け継がれていきますように・・・・・・。
2020.11.25 荒井 きぬ枝

壇上でスピーチをしている父。
うしろ姿のシルエットが私と弟です。