小布施町で老舗栗菓子店「桜井甘精堂」を営む一方、平和運動に関わり続けた桜井佐七さん(93)が23日亡くなった。戦争の悲惨さを知る世代の役割として、戦争放棄をうたう憲法9条を守ろうと県内各地の「九条の会」設立に尽力。(信濃毎日新聞 2021年1月27日付)
200年以上続く老舗の7代目は、平和と反戦を訴え、行動する気骨の経済人だった。(朝日新聞2021年1月28日付)
数日前、父の夢を見ました。父があんなにもはっきりと夢に出てきたのはめずらしいことです。夢の中で、父は佐七さんからいただいた手紙を読んでいるではありませんか。
翌日、父に促されたような思いで、私は整理してあった佐七さんの手紙のファイルを開きました。
手紙は約四十通、それにハガキが十数通。
はじめていただいた手紙にはこんなふうに── 念願かなって直接お話をうかがう機会を得、至福の一刻を持つことが出来ました。 そして父との交流が続きます。
佐七さんが父に寄せてくださった思いに、父はきっと励まされていたのだと思います。
こんな手紙もありました。 過日の中村哲先生講演会には「すいせんのことば」を頂きまして、誠にありがとうございました。おかげさまで深い感動の中に無事終了いたしました。 手紙を読んで初めて知ったことがありました。
『つづり方兄妹』を父から借りて、佐七さんは全文をコピーして大切に所蔵していらしたのです。
そうまでして『つづり方兄妹』を手元にと思われたことについて、佐七さんは父の講演を聞いてくださった女性のことばを手紙の中で父に伝えていました。 「『つづり方兄妹』は私にとって、自分の生き方に決定的な指針を与えてくれたバイブルで、今でも離さずくり返し読んでいます。」 その女性のことばが、父の遺した一文と重なりました。
佐七さんから父が頂いた手紙が、今、私にたくさんのことを伝えてくれています。 ふうちゃん党健在 房雄(以下ふうちゃん)の詩の短い引用では、その感動は伝えにくい。けれど丁度一年前(92年度)の初夏、NHKラジオでその全文を朗読する機会を得た。すると実にたくさんの反響があった。
ほど近い佐久市のYさんからは「お正月」の全文をのせた『しんゆう』という四ページの手づくり月刊誌が送られてきた。やがてどのように駆けづり回ってのことか、映画『つづり方兄妹』の所在が確かめられ、遂にはその上映会が実現して、私もその日の講師で参加することとなった。
また和歌山県串本町のMさんからもふうちゃん回想の長い便りがよせられ、自分が少年時代に親しんだふうちゃんの生涯が、あだかもMさん世代のモラルとして今も生きつづけているという感銘が記されてあった。
Yさんにせよ、Mさんにせよ、そんな回想を胸のうちにしまっているだけではなく、それぞれの地域における地についた文化活動を不屈につづけておられる。もしふうちゃんが生きていたなら、YさんやMさんのとしになっているはずだ。
ふうちゃんよ、君は今、まぎれもなく生きている! このごろ/ぼく、てつくずひろいしている/もう十八えんもうけた/ はよう百えんになってほしいなあ/ぼくところからみると/下の方はずうっと/ かたのの、のはらや/そのむこうに、いこま山が/ぬっと、たっている/ あのてっぺんに/よう白い雲がねている/ぼくあのくもにのりたいねん/ 百えんでけたら/でんしゃにのっていく ──Yさんの『しんゆう』には、ふうちゃんの「くも」という詩も甦っている。Mさんからは、けずり箱で奥さんが削ったというカツオぶしが届いた。そのたびに私は、児童文学出版へと出発した日の初心を想い、涙ぐむ。 週刊上田で連載されていた『昭和時代落穂拾い』が一冊の本として刊行された時、父はそれぞれの文章に短いことばを添えました。
以上の文章には次のようなひと言が───。 折から汚職あり、政変ありの現状にあって、ふうちゃんへの回帰はすがすがしく、日本のモラルの原点を示している。 今こそのことばだと私は思います。2021.2.3 荒井 きぬ枝

「信毎の中馬さんから3月24日の上田での会食のご連絡をいただきました。
私のお慕いするお二方と同席させていただくことなど又とないチャンスで
楽しみにしております」(平成21年2月26日の佐七さんの手紙より)
信毎の主筆でいらした中馬清福さんは当時70歳、
佐七さんは80歳
そして父が90歳
「10歳違いの3人の会」でした。