2021/5/14
5月12日──。
父の誕生日のこの日に毎年必ず朴の木(ほうのき)の花を届けて下さる佐久の吉澤さん。
今年も父の遺影のわきにかざらせていただきました。
吉澤さんは「つづり方兄妹」の房雄くん(ふうちゃん)の詩に励まされた“ふうちゃん党”のおひとりです。
“千曲川”の流れに沿って新潟まで行く小さな旅をしてきました。
父と一緒にかつて同じ旅をしたことがあります。
『千曲川─そして明日の海へ─』の執筆にとりかかる前だったと思います。
父はあの時、どんな風景を心にきざんだのでしょう・・・・・・。
飯山で高速を降りて、新潟県の十日町に向かいます。
道路わきに菜の花が咲いていて、それが延々と続いていました。
飯山は菜の花の里です。 いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
・・・・・・・・ 山村暮鳥のこの詩を、“ふるさとの原風景”について語る時、父がよく引用していたことを思い出しました。
“千曲川”は新潟県に入ると名称が“信濃川”に変わります。
ずっとずっと車は川沿いを走ります。
新緑のあい間あい間から川の流れが見えるたびにほっとするのです。
父が一緒にいるような気がして・・・・・。
新潟市で宿泊したホテルの窓からは川幅が広くなった信濃川が見えました。
翌朝、萬代橋をゆっくり渡ってみました。
もうすぐそこに海が見えます。
千曲川からたどりついた日本海です。
『千曲川―そして明日の海へ―』。
「おとうさん、ここまで来たよ」
そう父に語りかけながら、なんだか胸がいっぱいになりました。
『昭和時代落ち穂拾い』第一部の最後の父の文章です。 『千曲川』という作品を遺そうと思いつづけて来た。 父はそう記していました。
見てきたばかりの千曲川から信濃川、そして日本海の風景を今また、思い浮かべています。 2021.5.14 荒井 きぬ枝
故山へ還る
〽時これ五月十二日・・・・・(注)巡りくる誕生日毎に、必ずこの歌を口ずさんで戦後の四十五年が過ぎた。茫々として、あの日この日が甦る。あの顔この顔が浮かぶ。
それらがぎっしりと詰まって、重い。その重みをこらえこらえて、私の「昭和時代」は、大急ぎでひとまず敗戦の日まで辿りついたようだ。ここでひと息つかせていただく。
正に落穂拾いにも似たこんなメモではあるが、多くの読者が愛読して下さったようだ。たくさんの励ましと叱正とをいただいた。およそ60回も書けば、あらましは書き終えるかと思っていたのに、昭和史の三分の一をかえりみただけだ。思えば昭和史の初めから終わりまでを、よくぞ生きぬいたものだ、と、改めて思う。
編集者として何かにつけて仰いで来た同郷の先輩に臼井吉見さんがいる。彼は晩年に社業から解放されるや『安曇野』という大河のような作品を書いた。私も先輩の至福の歩みに倣って、昨年末には社業からフリーとなった。少し遅すぎたのだけれど、『千曲川』という作品を遺そうと思いつづけてきた。この「落穂拾い」は、期せずして、そのためのメモとなったようだ。この『週刊上田』紙に楽しく連載させていただいたおかげで、創作への脚ならしもできた!
かえりみれば臼井さんの作品は、日本の近代思想を切りひらいた前衛たちの群像に照明をあてることによって、信州人の秀れた先駆者をたたえることとなった。
けれども私は、この上小盆地という日本のヘソのような中心の地に、平凡な「平均的家族」として激動の時代を生きぬいたふるさと人の温もりを探ってみたい。
今こそ「失われてはならないたからもの」を書き留めて置きたい! (注)(アッツ島玉砕の歌)
朴の木の花と うの花に囲まれて
投稿者: エディターズミュージアム
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