2022/4/27
4月16日付の朝日新聞がロシア軍兵士の死について報道していました。 ロシア国防省は3月25日、ロシア軍兵士の戦死者を1351人と発表した。
地方メディアで地元出身の死亡者を伝える報道が増えており、10代や20代の若者が目立っている。 いつもママに「パパはいつ帰るの?」と聞いているという二歳の女の子。
婚約者を失った若い女性、「9月に結婚式を挙げるから、何があっても帰る」と約束していたと・・・・・。 欧米は、ロシア軍の戦死者が最大1万5千人にのぼるとみている。今後、ロシアに戻る戦死者の数が増えて国内に衝撃が広がれば、プーチン氏の政権基盤を揺るがす可能性もある。 多くの若い兵士の死。
「英雄的な行為に感謝する」という侵攻を肯定する投稿がある反面、
「いったい何のために死んだの。こんな狂気はもうやめて」とプーチン政権を批判する投稿もある───と。
そう、いったい彼らは何のために死んだんだろう。
誰のために死んだんだろう。
国のため?
人のいのちが世の中で一番たいせつだと、
今までおそわってきたのは間違いになりました。
一番たいせつなのは「国」になったのです。
先週、ここに載せた『戦争のつくりかた』の一節が私の頭の中でぐるぐる回っています。
「戦争責任の考え方」と題された父の文章があります。(『やさしさの行くえ』より)
“戦争責任”について考えている私に「ほら読んでごらん」と言うように父が差し出してくれた一文です。
吉田満さんの文章が日が経つにつれ父の胸中に鮮烈さを増してよみがえっていたように、父の文章が今、私の胸に深く刻まれていくのです。
2022.4.27 荒井 きぬ枝
戦争責任の考え方
『戦艦大和ノ最期』を遺した吉田満には、この自作に寄せて記した二つの文章がある。
「一兵士の責任」と「散華の世代」であるが、いずれの文章も、日が経つのにつれて私たちの胸中に鮮烈さを増してよみがえるのは、どうしてだろうか。
およそ戦争責任と言えば、「戦争行為全体が“平和”に対してもっている基本的な責任もあれば、戦争を直接にひき起こした特定の個人が負うべき責任もあり、また戦争に便乗して行なわれた残虐行為などに対する責任もある」と一般論をかえりみた上で、吉田満は「私にとって最も関心があるのは、平凡な一国民が消極的ながら戦争に協力せざるをえなかったという事実に対して、その一兵士にどのような責任が課せられるべきかという点だけにしぼって」考えぬいたのが「一兵士の責任」である。
そして出陣を眼前にした学徒諸君に対し末弘巌太郎先生が「諸君は征かねばならぬ。私としてはただ、一日も早く戦争が終わり、諸君が一人でも多く帰ってきてくれるのを祈らずにはおれない」と述べられた訓辞に頭を垂れて聞いた自分たちについて、涙こらえて書いたのが「散華の世代」だ。
それらの文章を通じて、第一に、戦争憎悪の念がそのまま平和を守る力になるだろうか。第二に、平和への手段としての戦争などというものがありうるか。第三に、戦争という魔術の持つ圧力を打ち破るだけの平和の力を考えられるか。そして第四に、国家の必要は個人の存在に優先するという認識を克服できるか。・・・・・・と、自分の内面に不屈な平和への信念を打ちたてようと、悪戦苦闘している。
このようにきびしく自分を問い詰めた散華の世代の心情が、その後の世代によって受け継がれているであろうか。むしろそんな戦後精神のきびしさが、ある日ぷつんと途切れてしまったまま、もはや戦争責任そのものが鈍磨してしまったのが現状ではなかろうか。
投稿者: エディターズミュージアム
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