2022/5/6
5月5日、「こどもの日」。
今現在、戦禍の中にいる子どもたちのことを考えています。
同時に、映像でその戦争の悲惨さを目にしている子どもたちの心の傷を思っています。
5月4日付の朝日新聞は、“戦争と子ども”と題して「社説」をこう書きはじめていました。 ネット時代に欧州で起きた戦争の姿が、生々しく世界に伝わっている。現地の難民だけでなく、戦禍を見つめる各国の人びとの心にも不安と恐怖がのしかかる。そんな折こそ、子どもをおとなが守りたい。 そして、 寄り添い耳を傾けて── と。
理論社が児童詩誌『きりん』の刊行を引き継いだのは1961年。
今、私はその『きりん』の通巻217号(1969年)を開いています。
表紙のきりんの絵は田島征三さんです。
刈谷市美術館でこの4月23日から開催される「田島征三アートのぼうけん展」の図録を送っていただいたこともあって、ふとその号を手にしたのです。
開いたとたん、“ベトナムの友だちの詩”という目次に強くひかれました。
そのことについて「あとがき」はこう説明しています。 今号でクローズ・アップした、ベトナムの少年の詩は、去る八月五日から東京の科学技術館で開かれた「ベトナム展」から紹介させていただきました。ごらんになった方もいるかと思います。ベトナム展実行委員会は、東南アジア学生親交団というグループをつくって、ベトナム難民救済活動をつづけている早大の学生を中心にした人たちです。
(中略)
パリ会談、アメリカ兵撤退開始という情勢の中で、なお、この少年たちの詩が訴えている現実は、深刻なのだと知らされます。 送っていただいた図録の巻末に征三さんの年譜が記されています。 1967年(昭和42年)27歳
11月:この年「ベトナムの子供を支援する会」が発足。代表を務めた「ベトナムの子供を支援する会」野外展を11月から数寄屋橋公園(東京都中央区銀座)で開始。
以後、1980年頃まで開催。 “ベトナムの友だちの詩”は、征三さんの胸につきささったのだと思います。
ベトナム戦争の終結から47年が経ちました。
けれど、あの時の子どもたちの悲しみ、あの時の子どもたちの怒りが、今またくり返されているのです。
二編の詩とともに、そこに添えられた父の文章を読みました。
さがしていた父のことばです。
戦禍の中の子どもたちへの、そして映像でその悲惨さを目の当たりにした子どもたちへの
それは父からのメッセージのように思えてならないのです。2022.5.6 荒井 きぬ枝
ベトナムの友だちの詩 グエン・バン・ホウ (九歳) おとうさんは戦争へいってかえってこない おにいちゃんもいってしまった おばあちゃんは片手がない きょうもばくだんがおちた タオ君は死んでしまった おかあさんは おとうさんがかえってくるといっているけど ぼくは知っている おとうさんは生きていないんだ みんなうそつきだ ファン・コック・ビン (十歳) 大きいヘリコプターがとんできて 機関銃をたくさんうった タン君のおとうさんが死んだ ぼくも、うちの中にいたのに足をうたれてしまった アメリカの兵隊がいっぱいきて ぼくのおとうさんをつれていった このまえぼくにバッジをくれたのに 二つの詩にそえて わたしがこの雑誌の校正を終えた10月3日には、アリューシャン列島のアムチトカ島で、アメリカによる一メガトンの地下核実験が強行されたというニュースが、世界じゅうを、びっくりさせました。これは、広島に落とされた原ばくの50倍の威力があるものだそうです。
今回の実験は引きつづいて何回もつづけられ、その最大のものは五メガトンもあるものだそうです。地震や津波の心配もあるのです。 ───こんな計画を、誰がたてるのでしょう? 何のためにやるのでしょう?・・・・・
みなさんがきいてみても、誰も答えてはくれないでしょう。
「それには、いろいろとむずかしい政治や軍事の問題があり、きみたちは、そんなこと知らなくても良いんだよ。いまに大人になれば分かることなのさ」
と、えらい人たちは、考えているのでしょう。
たしかに、子供たちには、むずかしいことは分かりません。しかし、子供たちには、子供たちだけが分かる「分かり方」があります。大人たちが忘れていても、子供たちは忘れない、大人たちが怒らなくても、子供たちは怒る──まっすぐで、えんりょのない物の見方があるはずです。
この頃、わたしは特に感じるのです。大人になるということは、だんだん物ごとが、まっすぐに見えなくなるということなのだ、と、しみじみ思います。この詩を読んで、さらに、そう思うのです。
(小宮山 量平)
投稿者: エディターズミュージアム
トラックバック(0)
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。