2022/5/18
“沖縄”について考える時、“沖縄”を想う時、そして“沖縄”を知ろうとする時、私は『太陽の子』(灰谷健次郎 1978年理論社刊)を読みます。
何を読むよりも、沖縄の人々のやさしさ、沖縄の人々の痛みが伝わってくるのです。
「あとがき」を読み返しています。
自死されたお兄さんの遺児たちへの手紙という形で書かれたこの「あとがき」が、本土復帰後五十年を経た今のこの国にあって、あらためて私の心にひびいてきます。 遺されたふたりの子どもたちへの手紙(あとがき) まさゆき君くにひろ君。
とうとう「太陽の子」(てだのふぁ)を書き終えました。長かった。二年半の仕事でしたが、ぼくは一つの人生を歩んだような感慨を持ちました。
あなたたちのおとうさんが自らの命を断って、もう十数年にもなります。巷に人や車はあふれ、日本の国はますます隆盛に見えます。人々は過ぎ去った日々を忘れ、きょうの日のことのみを追って、せわしく生きています。
一つの『生』のことを考える日本人は極端に少なくなりました。今ある『生』がどれほどたくさんの『死』や『悲しみ』の果てにあるかということを考える教師も少なくなりました。
それは日本人全体の堕落です。
まさゆき君くにひろ君。
今の日本を見ていると悲しくなります。あなたたちの亡くなったおとうさん、つまり、ぼくの兄は地下で何を思っているのでしょうか。日本という国の為に、命を捨てていった数十万、数百万の人々は、どのような涙を流せばいいのでしょうか。
死せる人々に応え得るような『生』が、今の日本にないとしたならば、この日本という国は、いったい何なのでしょうか。
(中略)
太陽の子───。
まさゆき君くにひろ君。
あなたたちは太陽の子です。あなたたちの中にあるあらゆる可能性は、人間の存在の意味を確実に問いつづけるでしょう。このことのみが唯一、日本の国を再生させる力になり得るのです。
ぼくはそれを信じて、この物語を書きました。
1978年夏 垂水にて 灰谷 健次郎 小説の終盤です。
沖縄差別に怒って暴力をふるった少年(知念キヨシ)を警察官が冷たく取り調べる場面です。
“ろくさん”が静かに語り始めます。 「知念君がひとに乱暴したのなら徹底的に調べてもらいたい。しかし、なぜ乱暴したのかということも徹底的に調べてもらいたい。いいかね」
「あんたは、なにがいいたいんだ」
ろくさんは直接それにこたえず、だれにともなく、ゆらゆら首を振った。
「あんた方は知っているかどうか知らないが、知念君が最初に警察のやっかいになったのは、八歳のときだ」
ふうちゃんはおどろいて、ろくさんの顔を見た。ろくさんがなぜそんなことを知っているのだろう。キヨシ少年もおかあさんも同じ思いらしく、じっと、ろくさんの顔を見ていた。
「小さい子が親から離れて沖縄から大阪につれてこられた。なにに頼ればいいのかね。
あずけられた家を逃げ出して野宿のようなことをして夜をあかすこともあったようだね。猫を飼っている家を覚えていて、猫の食べ残した煮干しをかじって飢えをしのいだ。
いいかい。この食べ物の豊富な時代にだよ。その家の人間がおもしろ半分に、猫の食べ残しをとりにきたたった八歳の子に、頭から水をぶっかけた。その夜、八歳の子は石を投げてその家の窓ガラスを割ったんだ」
ふうちゃんの顔が、泣きそうだった。
「おれが親ならその子をほめてやるね」
ろくさんはおだやかにしゃべっていたが、眼がうるんでいた。
「わしたち沖縄の人間は、そんな知念君がかわいかった。時間をさいて、みんなで手分けして知念君のことを、あんた方が知念君のことを調べるとは反対のやり方で、知っていったんだ。沖縄の人間はそうしてひとを愛してきた」
てだのふぁ・おきなわ亭にくるひとたちが、キヨシ少年を手でつつむようにやさしくあつかっていたわけが、今、ふうちゃんにわかった。肝苦り(ちむぐり)さということばが、ふたたびふうちゃんの胸にずっしりひびいてくるのだった。
(中略)
「あんたたちには、この子のかなしみがわからんのか。沖縄のかなしみがわからんのか」
ろくさんははじめて大声を出した。
「法の前に沖縄もくそもない。みんな平等だ!」
「そうか平等か。ほんとうに平等かね」
そのときはじめてろくさんの眼がぎらっと光った。怒りで手が震えていた。 “ろくさん”はシャツをぬぎます。
その胴には手が一本しかついていません。 「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ、おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだ ── わしたちを守りにきた兵隊がいったんだ。沖縄の子どもたちを守りにきた兵隊がそういったんだ。みんな死んで、その兵隊が生き残った。・・・・・・・この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」
ふうちゃんの眼に涙があふれた。しかし、ぎゅっと唇をかんで、ふうちゃんは耐えた。
「あんたはわしとあんまり年も変わらん。きっとやさしい子どもがいてるだろう。わしはこうして見えない手に打たれてひとりぼっちで生きている。同じ日本人だ。これが平等かね」
「・・・・・・・・・」
「あんたは子どもを殺したわしに手錠をかけることができるかね。悪いことをしないで平和に暮らしているひとたちのしあわせを守らなくてはならないとあんたはいったね。
わしたちはなにも悪いことはしないで暮らしていたんだがね。あんたが悪い人だとは思わない。しかし、あんたを見ていると、日本の国を守るといいながら、罪もない人たちを殺していかねばならなかった日本の兵隊を思い出す」
さすがに男たちはことばをなくした。
「法の前に沖縄もくそもないとあんたはいった。そのことを心から望んでいるのが沖縄の人間だと知ったら、あんた方はなんというだろう。失業率は全国最高、高校就学率は全国最低だけれど、あんた方はそのためになにかやったかね。ま、そんなことはいうまい。しかし、知念キヨシというひとりの少年を見るだけで、かれの人生の中に不公平な沖縄がいっぱいつまっているということを知ってもらいたい。
あんた方は知念キヨシという少年の人生を見る気持ちはないかね。あんたの人生がかけがえのないように、この子の人生もまたかけがえがないんだよ。ひとを愛するということは、知らない人生を知るということでもあるんだよ。そう思わないかね」
服を着てくださいと男はいった。
ありがとうといって、ろくさんはシャツを着、上着をつけた。 (後略) 本土復帰後五十年を経た今も、キヨシ君の痛み、ろくさんの痛みは決して消えてはいない・・・・・、私はそう思います。
2008年2月16日付の朝日新聞の『be』。
《灰谷健次郎と兄「太陽の子」》と題した取材記事が掲載されています。
見出しは“放浪先で命もらった”───と。 死に場所を探していたのかもしれない。そう漏らしたことがある。1972年、本土復帰後の沖縄を、37歳の灰谷健次郎は放浪した。長兄・吉男の自死をめぐる悩みの果てだった。
(中略)
思い詰めた灰谷のただならぬ様子を察してか、戦争で身内を亡くしたおばあたちが、逆に励ましてくれる。
「自分を責めて生きても、死んだ人は喜ばんし、幸せにならんさ」「沖縄のおばあたちが元気に暮らすのは、戦争で死んだ人たちの分も生きるためだよ」───.
悲しみを背負って前向きに生きよう、生者のなかに死者を生かし続けようとする沖縄。
自分もそうあろうと決めた。 (後略) この紙面を担当された記者、山本晃一さんは、父について次のように書いて下さっています。 灰谷が「兄と母が死んだ今、もう二度と味わってはならない、ぬくいものを感じさせてくださった」と慕った編集者・作家の小宮山量平さん(91)は、灰谷の著書の多くを世に出した。
小宮山さんが編集し、教師と子どもが詩作で交流する児童詩誌「きりん」で、灰谷は活躍し、子どもの詩を「自分の聖書」と大事にした。
大人が子どもから学ぶ教師像を作った灰谷は、沖縄の旅を経て、子どもと沖縄の共通点に気づいたと小宮山さんはみる。「重く苦しい人生を歩む子どもほど優しさと楽天性を持っています。」 復帰後五十年を特集するさまざまな記事にふれながら、私は今、『太陽の子』と灰谷さん、そして父と、あらためて向き合っています。2022.5.18 荒井 きぬ枝
投稿者: エディターズミュージアム
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