大学2年の時「神の子たち」(2001年 四ノ宮浩監督)という映画を大学の図書館で見ました。その映画はフィリピンのゴミ山で生きる人たちのドキュメンタリーでした。ある年、記録的な大洪水が起こりそのゴミ山の下に小屋を作って生活している何百人もの人が生き埋めになります。そして、フィリピン政府はゴミ山を閉鎖しました。ゴミ山でゴミを拾いながら生計を立てていた人びとは、閉鎖され換金できるゴミが日に日になくなってくるなか必死にゴミを探し続けました。飢え死にする子どもが続出し、ほとんどの人は一日一食のごはんさえも食べることができない状態でした。
おそらく、その映画の主旨は貧困の中で必死に生きる人々を感動的に描いているのだろうと思います。豊かな日本では考えられないような現実があることを訴えていると思います。何人かの人は食べるために町に出ました。しかし全く教育を受けず字を読むこともできない彼らは仕事を探す術をみつけられず、ゴミ山に戻りました。最終的にゴミ山を再開するようにデモを行い、事故から(たしか)6か月後に政府はゴミ山を開きました。
私はその映画で感動したとうよりも、怖いと感じました。「一生懸命仕事をすること=ゴミを拾うこと」という概念しか彼らにないことに対してです。情報が全く入ってこないゴミ山で一生懸命仕事をし家族と過ごすことが幸せなのか、何の保証もないが新しい何かがあるかもしれない外の世界に飛び出すことが幸せなのか。最近私は半分自分に置き換えて考えていました。今何をするべきなのか。そしてひらめいたのが、結局自分が「何をしたいのか」で選ぶ道が決まる。と。そして「それがわからない…」となってしまいました。チャンチャン!!
そしてもう少し考えを掘り下げて、次ゴミ山が崩れたらどうなるのか、ゴミ山で「何をしたいのか」の道を選択する段階にたどり着けるのかという疑問が出て来ました。社会人でも学生でもない立場にいるから、こんなことを考えています。

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