「怒り」なき時代に:元Jリーガー メロンパンチェーンオーナ山田隆裕(34)
■ニート見てるとすごく腹が立つ
「ニートなんていってシラケてる若いやつ。腹が立って仕方がないんだ。若いんだからチャレンジしないと。何のための人生だか。ね、そうは思いませんか」。 待ち合わせた都心のホテルのラウンジで、山田隆裕は機関銃のように話し続けた。サラサラの髪。よく動く丸い目と滑らかな舌。俳優のように甘く、端正な顔立ちだ。だが表情のそこここに隠しようもない負けん気がへばりついている。
「サッカー選手は、いつかサッカーに捨てられるんです。だから僕は逆にサッカーを捨ててやろうと思った。サッカーは二十代まで。三十代で経験を積んで四十代で財をなす。五十代でまた挑戦。これが僕の人生のスケジュールですから」
言葉のとおり三十一歳になった二〇〇三年に十二年間のプロサッカー選手生活から足を洗った。ほぼ同時に始めたビジネスが移動式メロンパン販売のフランチャイズ経営である。
現在、仙台市を中心に数台のバンがスーパーの駐車場などでメロンパンを売りまくっている。涼しい土地のせいか、焼きたてでホカホカのメロンパンは、一日に千個も売れる。山田は、自分で現場に立つことはないが、マネジメントなどで仙台と東京を行き来する忙しい毎日だという。
■「雑用ばかりで」五輪代表を辞退
現役時代から「異端児」と呼ばれることが多かった。プレーは天才肌。俊足を飛ばし、右サイドを駆け上がるドリブルは、まさに稲妻だった。名門・清水商高では高校選手権、インターハイ、国体など六つの日本一タイトルを総なめ。同期の名波浩(磐田)とともに超高校級と騒がれた。
横浜F・マリノスの前身である日産自動車に入団すると、この年、早くもバルセロナ五輪の代表候補に選出される。ところが「雑用ばかりやらされて耐えられない」と辞退し、物議を醸した。一九九二年にはオフト監督が率いる代表チームに呼ばれるが、また「試合に出られないなら行かない」と同行を拒否した。
「僕はステータスでサッカーをしていたわけではない。金を稼ぐのが目的でした。だから年俸に反映されない代表に合流してコンディションを崩すわけにはいかない。試合に出られずに練習相手をしているわけにもいかなかった。生活がかかっているんですから」
山田にとって「サッカー=お金」だ。この公式が頭の中に出来上がったのは、少年時代の過酷な体験と無縁ではない。
山田が育った静岡市(旧清水市)は、男の子が生まれるとサッカーボールを贈るような土地柄だった。ボールをける才能さえあれば、この町ではヒーローになる。小学三年で名門清水FCに入団すると、まもなく市選抜に選出された。父は会社を経営しており、大きな家の駐車場には何台も車が並んでいた。
■「穴の中から」見上げた青春
だが、輝きに満ちた日々は一日を境に暗転した。
中学に上がるころ父が事業に失敗し、莫大(ばくだい)な借金を残したまま姿を消した。家も車もなくなって、母と姉と祖母の四人で八畳一間の借家に移り住んだ。
働き始めた母を助けるためにお金を稼ぎたかった。しかし当時の中学生は丸刈りが決まりで、アルバイトをしようにもすぐにばれてしまう。だから友だちの父親に頼み込んで道路工事の現場で働かせてもらった。サッカー部の練習が終わると、ヘルメットで丸刈りを隠し、穴に潜った。
ある夕暮れ。現場の横の歩道を同級生の男女が手をつないで歩いてくるのを見た。「さすがにへこんだ。おれは何をしているんだろうと思った」。翌日、学校で言いふらすと、同級生が「おまえ、どこで見ていたんだ」といぶかしがった。「穴の中だよ」と答えそうになって、やっぱりやめた。
そんな状態でもサッカーは続け、東海選抜チームの主将として全国優勝も果たした。だが高校へは進まずに就職して家計を助けるつもりだった。ある日、後に恩師となる清水商の大滝雅良監督の訪問を受けた。
「先生が『近い将来、日本にもプロリーグができる。現状を打開するには、サッカーで金を稼ぐのが一番の近道だろう』って。何より、ほかに選択肢がなかった」
清水商に進学。三日でいやになったほどの練習に明け暮れ、高校サッカーの頂点に立った。「人生で一番濃密な三年間。でも僕にとってサッカーは青春でも夢でもなかった。生活ですよ。必ずプロにならなきゃいけないから日本一のタイトルにこだわったんだ。サッカーより稼げる職業が目の前にあれば、僕はそっちへいったと思う」
プロ入りを果たし、一年目に千五百万円だった年俸は七千万、八千万…と上がった。それでも契約更改ではフロントと衝突した。
「ろくな査定もしないで、最初から数字が決まっている。冗談じゃない。サラリーマンじゃないんだ」
サッカー以外のことに目が向き始めたのは、このころだった。遠征の車中で、松下幸之助の成功哲学やマーケティングの本などを読みふけった。孫正義の講演会にも足を運んだ。
一度引退してからJ2の仙台で復活したが、二年目にチームがJ1昇格を果たしたとき、緊張の糸がぷつりと切れた。
今、山田の願いは「成功すること」だという。つまり「稼ぎまくること」。
「今のビジネスで満足はしていない。もっと新しい分野に挑戦したい。最近、元神戸製鋼のラガーマンで実業家として成功した富岡剛さんにお会いした。ネットワークビジネスのトップに座る人だ。この出会いは一生ものだと直感した。そういう出会いを大切にして、もっと大きくなっていきたい」
また、こうも話す。
「『金で買えないものはない』なんて考えていません。この言葉を言った人は、渋滞の高速道路で路肩を走ったようなものだと思う。でも僕には、お金が軽いものだとも思えない。もしも僕にとってかけがえのない人が借金で困り首をつろうとしていたら、足りるだけのお金を差し出せたらよいなと思う。で、そのときに言うんです。『人生は金じゃないさ』ってね。父ですか。あれから二十一年間、一度も会ったことはないし、消息も知りません」
(敬称略、坂本充孝)
やまだ・たかひろ 1972年、大阪府高槻市生まれ。超高校級FWとして注目を浴び、Jリーグ発足前夜の日産自動車(現・横浜F・マリノス)に入団。92年アジア杯日本代表。京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)を経て2000年にベガルタ仙台に移籍し、03年に引退。引退後、移動式販売のメロンパン屋チェーンを設立した。
<デスクメモ>
第二の人生として思い描くのは沖縄・石垣島のエメラルドグリーンの海を見晴らす高台でカレー屋を出すこと。などと考える人が多いのか、この島は今、ナイチャー(本土の人)で人口急増だ。そして失敗して帰る人も多い。山田氏のような信念がないと護送船団から出た帆掛け船はたちまち難破と心得たい。(蒲)

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