2006/11/16
歩々是道場 禅語

妙喜庵 士延和尚筆
『歩々是道場』(ほほ これ どうじょう)
「新版一行物 禅語の茶掛」(淡交社)には次のように解説されている。
禅者にとっては、清閑な禅堂にあって座禅している時だけが修行なのではない。
食事の時も用便の場も修行であり、作務で鍬をふるっている時も、街頭を歩いている時も、満員電車で揺られている場も修行である。
茶道に即して言えば、茶室にいる時だけが茶の修行なのではない。
食事の支度をしている時や来客の応対をしている時はもちろん、洗濯をしている時も、子供の世話をしている時も、みな修行である。
道の修行を志す者にとっては、一切時、一切処、すべてが修行の場であり、道場である。
禅語には、難解なものも多いのだが、この言葉は、その中で比較的わかりやすく、私の好きな禅語のひとつである。
そもそも、このブログのタイトルである「聖なる日常」と、相通ずるものを感じる。
「聖なる日常」という言葉は、以前、私が奇跡や神秘体験を通じて、この世の真理を知りたいと、切実に何かを求め続けていた頃、「特別な奇跡など起こらなくても、日常そのものが、聖なるものなんだ」ということに気付いた時に浮かんだ言葉で、それ以来、私の心の拠り所となっている。
少し、意識を変えて物事を見ることで、日常のあらゆる出来事に聖なる意味を感じることができるようになる。
そして、生きている全ての瞬間が、いとおしくなってくる。
何かに悩む日もある。
しかし、それも自分にとっての”修行”と思えば、堂々と立ち向かう力が湧いてくる。
もしかしたら、私たちが生まれてきた目的は、この世で”修行”し、魂が成長するためではないか、とも思っている。
