2009/9/9
掃部山 日常 時事

画像引用 横浜線沿線散歩
身は江戸に眞向きつ湊を見下ろせる掃部山なる銅像あはれ
横浜の開港百五十年祭りははかばかしい盛り上がりもなく、市長の辞任といふ後味悪いオチまでついて踏んだり蹴ったりのやうでしたが、井伊大老は評価の別れる人物とはいへ開港の恩人をしつかり顕彰する事業を前段に置いてかかるべきであつたのではと思ひます。
その上でこそかの蜘蛛ロボットも生きた筈です。
開港五十周年に当り、旧彦根藩士らが買取つて井伊家私有地とした「鉄道山」に、旧攘夷派の圧力に発した中止命令を無視して建立された像は一夜の内に首が切り落とされてゐたとのこと。
降つて大東亜戦中には国粋気分昂揚と物資の欠乏と相俟つて、維新の先駆者らを惨殺した朝敵の像だとて金属回収指示により最初の像は取り払はれ行方不明、再建されたのは戦後九年も経過してからでした。
革新する側にも保守する側にもそれぞれの受難があつたといふべきでせう。
私は短い期間でしたが掃部山へは徒歩五分といふ場所に住んでゐたことあり、公園の背後にはコンサートホールあり能楽堂あり、茶室も図書館もありで、休養と心の涵養とを兼ねて通ふ度ごとに思ひ入れることありげな像を眺めたものです。
あたかもその年は日教組の大会がそこで開かれて期間中山全体を機動隊が取り囲む始末で許可証所持の山上の住民以外は立ち入り禁止にされたことなど憶ひ起こされます。当然私の部屋の周囲をつき物の街宣車が大音量で行き交つてをりました。
