2018/5/4
念願の… 中部・東海そぞろ
旅の目的はここ「伊勢中川駅」
そう、松浦武四郎生誕200年、北海道命名150年の年だもの
「松浦武四郎記念館」を見学しなくちゃね。笑
旅の作戦を練っている時に、ふと気が付いたの。
もしや「松浦武四郎記念館」は月曜日休館日?って…
たいてい、記念館、美術館、博物館は月曜休館日が多いので、調べてみたらピンポン!でした。
旅行初日が月曜日。
午前中に名古屋に着くので松坂市に直行し、半日かけて記念館を見学…という計画は即白紙に。
なので着いてすぐ「河崎市」をサイクリング!
でも、伊勢に泊り神宮参拝しないのもな〜ってことで、翌日早朝から神宮参拝したってワケ。
結局のところ、予定にない旧街道まで歩いちゃって時間カツカツ状態になったってワケ…


時間帯が良かったのか〜
1日に数本しか走らないコミュニティバスにタイミング良く乗れて、200円で「武四郎の生誕の地」まで行くことができました!ついてるーー!(でなけれはタクシー)

到着です!
バスを降りた途端に、黄色い法被姿の男性3人?が「こんにちはー!」とお出迎えです。
「どこから来たの?」
「北海道です!」
皆さん、笑顔でウエルカム!
「主屋」
武四郎の兄、佐七が家督を継いでから、武四郎の父母、兄、佐七の家族が暮らしてきた家。
武四郎は16歳で家を出て江戸へ一人旅をした後、17歳から日本各地を巡り歩き、19歳で四国八十八カ所を巡礼、20歳で九州1周へ。
はじめは中国やインドへ行こうとしましたが、鎖国のために断念。長崎で蝦夷地の危機を知り26歳で9年ぶりにこの家に戻り、すでに他界していた父母の(母屋)仏壇に手を合わせ、四国・九州の旅行記をまとめたあと、27歳で再び家を出て蝦夷地へ向かいます(パンフより、ほぼ抜粋)

「土蔵」
明治時代に建てられm長く武四郎に関する資料が保管されてきた蔵。
その資料が当時の三雲町(小野江町)に寄贈され、平成6年に記念館がOPEN

母屋のかまどなどは、家相図に基づいて、武四郎の生きた時代に一部復元したとのこと。
奥に見える樽は「お風呂」だそうです


「仏壇」は当時のものです。
この前に武四郎が座り、ナㇺナム…して蝦夷地へ旅立ったのですね。

家の前は「伊勢街道」で「おかげ参り」の旅人が頻繁に行き交った道。
武四郎が13歳の時は、60年に1度の「文政のおかげ参り」。
1年に500万人以上もの旅人が家の前を歩く姿に刺激をうけ、旅を志すようになったそうです。
また、前の通りがかぎ型になっているので、誰が来たのかこの小窓からわかるように・・・という小細工も。かつては郵便局として使用されたこともある建物なのだそうです

松浦武四郎は、江戸後期の文化15年(1818年)に三重県松阪市小野江町に生まれました。17歳から全国をめぐる旅に出て明治21年に71歳で亡くなるまで、沖縄以外の日本各地を歩いた「旅の達人」。
幕末に、ロシアとの緊張関係にあった蝦夷地を6回にわたり調査し、その成果として調査記録と地図を残したほか、明治維新には政府で開拓使の判官を務め、北海道の名前につながる道名や国名、郡名などの選定に携わり「北海道の名付け親」と呼ばれています(パンフより、ほぼ抜粋)
これは「開拓使判官」になった時の燈篭
「判官」の文字も確認できます!
と、詳しく説明して下さった黄色い法被のこの方こそ
なんと「松浦」さんと申しまして…
松浦家の本家の子孫でいらっしゃいます!
そう言われてみると…
お顔がソックリです!
北海道から、しかも1人で訪ねた私を歓迎して下さり、とっても親切に案内して下さいました!

この後、法被を脱いで(笑)案内してくれたのが裏のお寺「真覚寺」
ここは、武四郎のお母さまのご実家で、なんと!あの金田一京助もすみかにしていた場所。
武四郎は、金田一京助が境内に植えた「桜」の木の側で生まれたのだそうです。
武四郎は7歳の時に、ここの来応和尚から「読み書き」を学んでいます。

来応和尚のお墓もありました。

誕生地とお寺は隣り合わせです

ちょうど、その中間に金田一京助が植えた桜がありました!
根本から横に大きく枝を伸ばしています。
花はもう終わっていました(訪ねたのは4月10日)残念。

その後、記念館まで松浦さんが歩いて案内して下さいました。
小野江小学校プール横の壁画です。
平成17年に6年生が、卒業記念に描いたものです。


武四郎が生まれてから亡くなるまでをイラストにしています。

「なんじゃもんじゃの木」って、なんじゃ?
「ヒトツバダゴ」っていうんですって!
ちょうど今頃(5月上旬)きれいな白い花が咲くのです。
見てみたい!

誕生地から記念館までのルート沿いに、エゾヤマザクラが植林されています。
平成19年〜22年にかけて、北海道新聞社が行った「北海道千本桜運動」で、計35本のエゾヤマザクラの苗木が寄贈されたのだそうですよ。

看板の前で、写真を1枚撮らせていただきました

「松浦武四郎記念館」です


ここと…

ここの前で、松浦さんと私の2ショット(3ショット?)で記念写真を。笑
最初は遠慮していた松浦さんですが…そのうちに「せっかくなら、この前いい」と。笑

展示物やVTRをジックリと見学。
旅行家、探検家。出版者、学者…多芸多才の武四郎の生涯を学びます。
武四郎が70歳になり、体力的にもう全国行脚は無理と思った時に、全国の寺などから贈られた古材で建てた「タタミ1畳の書斎」の再現もありました(本物は国際基督教大学にあります)


アイヌの人たちの良き理解者でもあった武四郎。
帰宅してから、真っ先にタロが言うんです「松浦武四郎のパンフレットないの?」って…
実は興味があると…
え??
江戸時代の儒教の教えを受けた人が、なぜアイヌの人たちを理解しようとしたのだろう…。当時あった偏見感覚(ごめんなさい)から離れて、その頃の常識外のことを発想する・知ろうとする…その感覚が素晴らしいと思うって。
パンフレットにあった「たぐいまれなる知識欲と冒険心…」の文字。
知的好奇心が人一倍豊かで、健康な心と体を持ちあわせていたのだと思います。
武四郎がもう少し長く開拓使判官を務めていたら…
今頃、どんな北海道になっていたかな〜
松浦さんには大変お世話になりました。
ありがとうございました!

コミュニティバスが来ました!
伊勢中川駅へ戻り、松阪駅へ移動します。

この日の宿泊は「松阪市」です。


おまけ
この日の宿の部屋菓子

旅日記、まだまだダラダラ続きます…
そう、松浦武四郎生誕200年、北海道命名150年の年だもの
「松浦武四郎記念館」を見学しなくちゃね。笑
旅の作戦を練っている時に、ふと気が付いたの。
もしや「松浦武四郎記念館」は月曜日休館日?って…
たいてい、記念館、美術館、博物館は月曜休館日が多いので、調べてみたらピンポン!でした。
旅行初日が月曜日。
午前中に名古屋に着くので松坂市に直行し、半日かけて記念館を見学…という計画は即白紙に。
なので着いてすぐ「河崎市」をサイクリング!
でも、伊勢に泊り神宮参拝しないのもな〜ってことで、翌日早朝から神宮参拝したってワケ。
結局のところ、予定にない旧街道まで歩いちゃって時間カツカツ状態になったってワケ…


時間帯が良かったのか〜
1日に数本しか走らないコミュニティバスにタイミング良く乗れて、200円で「武四郎の生誕の地」まで行くことができました!ついてるーー!(でなけれはタクシー)

到着です!
バスを降りた途端に、黄色い法被姿の男性3人?が「こんにちはー!」とお出迎えです。
「どこから来たの?」
「北海道です!」
皆さん、笑顔でウエルカム!
「主屋」
武四郎の兄、佐七が家督を継いでから、武四郎の父母、兄、佐七の家族が暮らしてきた家。
武四郎は16歳で家を出て江戸へ一人旅をした後、17歳から日本各地を巡り歩き、19歳で四国八十八カ所を巡礼、20歳で九州1周へ。
はじめは中国やインドへ行こうとしましたが、鎖国のために断念。長崎で蝦夷地の危機を知り26歳で9年ぶりにこの家に戻り、すでに他界していた父母の(母屋)仏壇に手を合わせ、四国・九州の旅行記をまとめたあと、27歳で再び家を出て蝦夷地へ向かいます(パンフより、ほぼ抜粋)

「土蔵」
明治時代に建てられm長く武四郎に関する資料が保管されてきた蔵。
その資料が当時の三雲町(小野江町)に寄贈され、平成6年に記念館がOPEN

母屋のかまどなどは、家相図に基づいて、武四郎の生きた時代に一部復元したとのこと。
奥に見える樽は「お風呂」だそうです


「仏壇」は当時のものです。
この前に武四郎が座り、ナㇺナム…して蝦夷地へ旅立ったのですね。

家の前は「伊勢街道」で「おかげ参り」の旅人が頻繁に行き交った道。
武四郎が13歳の時は、60年に1度の「文政のおかげ参り」。
1年に500万人以上もの旅人が家の前を歩く姿に刺激をうけ、旅を志すようになったそうです。
また、前の通りがかぎ型になっているので、誰が来たのかこの小窓からわかるように・・・という小細工も。かつては郵便局として使用されたこともある建物なのだそうです

松浦武四郎は、江戸後期の文化15年(1818年)に三重県松阪市小野江町に生まれました。17歳から全国をめぐる旅に出て明治21年に71歳で亡くなるまで、沖縄以外の日本各地を歩いた「旅の達人」。
幕末に、ロシアとの緊張関係にあった蝦夷地を6回にわたり調査し、その成果として調査記録と地図を残したほか、明治維新には政府で開拓使の判官を務め、北海道の名前につながる道名や国名、郡名などの選定に携わり「北海道の名付け親」と呼ばれています(パンフより、ほぼ抜粋)

これは「開拓使判官」になった時の燈篭
「判官」の文字も確認できます!
と、詳しく説明して下さった黄色い法被のこの方こそ
なんと「松浦」さんと申しまして…
松浦家の本家の子孫でいらっしゃいます!
そう言われてみると…
お顔がソックリです!
北海道から、しかも1人で訪ねた私を歓迎して下さり、とっても親切に案内して下さいました!

この後、法被を脱いで(笑)案内してくれたのが裏のお寺「真覚寺」
ここは、武四郎のお母さまのご実家で、なんと!あの金田一京助もすみかにしていた場所。
武四郎は、金田一京助が境内に植えた「桜」の木の側で生まれたのだそうです。
武四郎は7歳の時に、ここの来応和尚から「読み書き」を学んでいます。

来応和尚のお墓もありました。

誕生地とお寺は隣り合わせです

ちょうど、その中間に金田一京助が植えた桜がありました!
根本から横に大きく枝を伸ばしています。
花はもう終わっていました(訪ねたのは4月10日)残念。

その後、記念館まで松浦さんが歩いて案内して下さいました。
小野江小学校プール横の壁画です。
平成17年に6年生が、卒業記念に描いたものです。


武四郎が生まれてから亡くなるまでをイラストにしています。

「なんじゃもんじゃの木」って、なんじゃ?
「ヒトツバダゴ」っていうんですって!
ちょうど今頃(5月上旬)きれいな白い花が咲くのです。
見てみたい!

誕生地から記念館までのルート沿いに、エゾヤマザクラが植林されています。
平成19年〜22年にかけて、北海道新聞社が行った「北海道千本桜運動」で、計35本のエゾヤマザクラの苗木が寄贈されたのだそうですよ。

看板の前で、写真を1枚撮らせていただきました

「松浦武四郎記念館」です


ここと…

ここの前で、松浦さんと私の2ショット(3ショット?)で記念写真を。笑
最初は遠慮していた松浦さんですが…そのうちに「せっかくなら、この前いい」と。笑

展示物やVTRをジックリと見学。
旅行家、探検家。出版者、学者…多芸多才の武四郎の生涯を学びます。
武四郎が70歳になり、体力的にもう全国行脚は無理と思った時に、全国の寺などから贈られた古材で建てた「タタミ1畳の書斎」の再現もありました(本物は国際基督教大学にあります)


アイヌの人たちの良き理解者でもあった武四郎。
帰宅してから、真っ先にタロが言うんです「松浦武四郎のパンフレットないの?」って…
実は興味があると…
え??
江戸時代の儒教の教えを受けた人が、なぜアイヌの人たちを理解しようとしたのだろう…。当時あった偏見感覚(ごめんなさい)から離れて、その頃の常識外のことを発想する・知ろうとする…その感覚が素晴らしいと思うって。
パンフレットにあった「たぐいまれなる知識欲と冒険心…」の文字。
知的好奇心が人一倍豊かで、健康な心と体を持ちあわせていたのだと思います。
武四郎がもう少し長く開拓使判官を務めていたら…
今頃、どんな北海道になっていたかな〜
松浦さんには大変お世話になりました。
ありがとうございました!

コミュニティバスが来ました!
伊勢中川駅へ戻り、松阪駅へ移動します。

この日の宿泊は「松阪市」です。



この日の宿の部屋菓子

旅日記、まだまだダラダラ続きます…
2018/5/7 9:44
投稿者:花子
2018/5/4 23:05
投稿者:砂糖味
松浦武四郎記念館、私も行ってみたくなりました。
幕末に北海道を訪れた著名人たくさんいますね。伊能忠敬、頼三樹三郎、武田斐三郎、高松凌雲・・・。中でも未知の北海道を歩き回った松浦武四郎は出色。著作の数、アイヌとの交流、地名入りの精緻な地図、北海道の命名等々。150年を機に北海道が大きく取り上げているのは当然のことです。
そういえば今日のNHKテレビ、伊能忠敬五代目子孫という96歳の女性が出ていました。
幕末に北海道を訪れた著名人たくさんいますね。伊能忠敬、頼三樹三郎、武田斐三郎、高松凌雲・・・。中でも未知の北海道を歩き回った松浦武四郎は出色。著作の数、アイヌとの交流、地名入りの精緻な地図、北海道の命名等々。150年を機に北海道が大きく取り上げているのは当然のことです。
そういえば今日のNHKテレビ、伊能忠敬五代目子孫という96歳の女性が出ていました。
おはようございます!
返信、いつも遅くてごめんなさい。
そして今は…
道内の武四郎碑や像を制覇してみたい意欲にかりたてられています。笑
命名150年に異議がないわけではないのですが…
一度は訪ねてみたかった「武四郎記念館」
思い切ってポチってヨカッタです。
NHK…
見逃しました。
アレも、ソレも…