北原鈴淳尺八教室in八王子  音楽

  
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  指導者  鈴慕会 大師範

            
            北 原 鈴 淳







音楽歴  
長野県飯田市立追手町小学校5〜6年で器楽班に入り、小太鼓を担当。

東中学校2年から飯田高校の吹奏楽班でユーホニュームを担当(5年間)

大学の三曲研究部で琴古流尺八を始め、故二代青木鈴慕・人間国宝(2018年8月21日死去)に師事
      
1972(昭和47)年1月 浅草国際劇場の「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」 で10日間「仁義」「盃」「誠」を尺八伴奏
      
1976(昭和51)年 渋谷東邦生命ホールで尺八リサイタル
曲目「みだれ」「一定」「箏四重奏曲」「詩曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」

1991(平成3)年3月 NHKFM放送「邦楽のひととき」
に「明治松竹梅」出演
さらに1991(平成3)年7月「泉」、1992(平成4)年「末の契り」、1992(平成4)年6月「泉」再放送、など出演

      
2007(平成19)年 北原尺八教室をめじろ台に開設

2021(令和3)年、芸歴(芸道・竹道)55年を迎えた

稽古場 東京都八王子市めじろ台2丁目
      (京王線めじろ台駅徒歩6分)
     
      電話 042−668−1278
(お問い合わせは午前8時〜午後8時まで)

稽古日 日曜日・月曜日・火曜日・木曜日(午前10時から午後5時までの予約制)        
    ご希望により他も可能な日(午前中など)があり、ご連絡下さい。
月謝   
月2回、5000円 (1回約50分間)
月3回、7000円 (1回約50分間)
月4回、8500円 (1回約50分間)
ワンレッスン、3000円 (約1時間)

その他、ご希望により特別ワンレッスン2時間を設けます。(5000円)

入門料 3000円(ホームぺージご覧の方は半額の1500円)
      入門者には自費出版のCD1枚差し上げます。

初心者から対面式で一人一人指導します。まずは基本の音出しから。
 古曲を中心に宮城曲、現代邦楽、歌謡曲までご希望にも応じます。

琴古流本曲 三谷菅垣・雲井獅子・虚空鈴慕・鹿の遠音 など

地唄筝曲  黒髪・千鳥の曲・笹の露・残月・八重衣 など

宮城曲   春の夜・春の海・初鶯・泉・虫の武蔵野 など

現代邦楽  風動・詩曲・一定・萌春・出雲路・箏四重奏曲 など

その他ご希望により 童謡・唱歌・歌謡曲(著作権法に触れない曲)など

体験レッスン 500円(約60分) ご予約ください

初めての方には、安価な樹脂製の尺八「悠」(¥11000+税で、良く鳴ります)を取り寄せます。竹製欲しい方は、別途ご紹介します。
取りあえず、貸し出し用のプラ管あります。

練習の状況により箏や三絃と時々合奏練習をして、年に一度は稽古場でおさらい会をします。

1976年北原康夫尺八リサイタルより、
杵屋正邦作曲・尺八独奏曲「一定」(いちじょう)が聞けます。
長澤勝俊作曲
「独奏尺八のため詩曲」
上記、青色線をクリックしてください。

金曜日・土曜日は箏・三絃教室も開いています。
こちらのホームページをご覧ください。
http://ivory.ap.teacup.com/koto8/


近況と雑感(9/19) 

園芸
ブドウ(スチューベン)を収穫した。

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スチューベンは皮の内側がもの凄く甘く旨い。上品な味だ。

先日、所用で新宿に出かけた。
新宿西口の安田生命ビルの取り壊しが始まり、その区画が更地になりつつあった。
またここも高層ビルが建つようである。

安田生命ホールには数々の思い出がある。
大学4年生の頃、佐藤親貴(ちかき)先生の門下である竹内親園が主催する「園の会」に尺八賛助出演するよう青木先生から依頼された。

この時、母が絹地で紋付きを作ってくれて(手縫い)、初披露となった。光沢があり、立派な紋付きだ。
後で母から聞いたが、生地がとても厚く、なかなか針が通らなかったと言っていた。

着付けを手伝ってもらい「松竹梅」を演奏した。相手は三絃佐藤親貴、箏杉野雅喬だったが、三曲合奏がこんなにピッタリ合うのは初めての経験だった。

その後、家内と結婚した30歳過ぎ、家内が所属する「飛鳥の会」に賛助出演した。
「千鳥の曲」や宮城道雄作曲「初鶯」である。「初鶯」の話は随分ブログに書いた。

鶯が乱れて飛び交い、私は誰の箏に合わせていいのやら、誠に困った演奏だった。


門下生へ
高齢者ではあるが、新人が入門された。
銘管をお持ちで、先ずは音出し。りとチがやっと出るようになった。

尺八は定期的に練習だけはしておいてください。しばらく練習しないと顔や腕の筋肉が衰え、回復に時間がかかります。

毎週月曜日のNHKFM午前11時20分に「邦楽のひととき」があります。聞いてみてください。
又、土曜日のNHKFM午前11時より「邦楽百番」があり、一流の演奏家を中心とした演奏が聴けます。



日本・世界の高層ビル  随想・日々是尺八

東京浜松町に世界貿易センタービルがある。竣工時には日本一の高さだった。
そのビルが取り壊されることになり、6月30日閉館したそうだ。

1970年竣工、高さ152メートル、地上40階のビルだ。
取り壊しの跡地に新ビルが建設され、2027年3月完成予定。

このビルにS社と言う会社が当時あり、勤務していた会社の冷蔵・冷凍ケースはすべてこのリース会社にお願いしていた。

あの頃の経済発展はもの凄く、お互い接待もあり、お陰様でそのビルに登る事が出来た。
打ち合わせの後、銀座のスナックに行きS社の社員が仙台で流行っていると言う「青葉城恋唄」を歌ってくれた。

初めて聞いてその良さは分からなかったが、その後テレビで「さとう宗幸」が歌って大ヒットした。

今、渋谷は高層ビルが軒並み出来ている。

「渋谷マークシティ」は2000年2月竣工。地上23階建て、高さは95.55メートル。
井の頭線の渋谷駅の駅ビルになる。ホテルや能楽堂、レストランもある。

「渋谷ヒカリエ」は東急文化会館跡地に出来たビルである。

2012年3月竣工、地上47階建て。
7階にレストランがあり、東急Bunkamuraのオーチャードホールでの演奏会を聞きに行った時に利用した。

当時、東急文化会館の屋上にはプラネタリウムがあり、中学の修学旅行で星座を見た。
眠くてほとんど見てなかったと思う。
帰りのバスガイドが「上の瞼と下の瞼が仲いいですね」と言っていたのが懐かしい。

会館内の「東急ゴールデンホール」で私達は結婚式を挙げたところでもある。

2018年11月には「渋谷ストリーム」が開業した。地上35階建て。
旧東横線の渋谷駅の跡地に建設されて、渋谷川に沿ってビルが建ち、渋谷川を望んでレストランもある。

このビルへ行くには渋谷駅からぺデストリアンデッキ(橋)を通って行ける。国道246号の上を横切る形だ。

最近、話題になったのが「渋谷スクランブルスクエア」だ。いつか46階にある展望台に行って見たい。
2019年11月開業。高さ230メートル、地上47階。

さらに、東急は「東横店西館」の跡地にもビルを建てる予定だ。2027年竣工予定。

新宿では
1971年竣工の「京王プラザホテル」は地上47階の高さ178メートル。

1974年竣工の「新宿住友ビル」は高さ210メートル。
ビル内には「朝日カルチャーセンター」があり、青木鈴慕先生が教えた生徒が鈴慕会に入会している。

1990年竣工の都庁舎は地上48階建て、高さ243メートル。
丹下健三設計で南館と北館のツインビル。それぞれ南展望室、北展望室があり、都心を一望できる。

2008年2月竣工の「コンシェリア西新宿TOWER'S WEST」は地上44階出ての高さ159.8メートル。黒川紀章設計の高層マンション。

私が自営業していた店のはす向かいにあり、販売時にお願いして最上階モデルルームを見せてもらった。見晴らしは良く目の前に富士山が見えた。販売価格は当時2億円だった。

アメリカに行ってみよう。
1988年10月、「米国流通業視察団」でシカゴに行った時に登ったビルが「シアーズタワー」で、シカゴで一番高いビルだ。シアーズ・ローバックの本社である。

1973年竣工、108階建て1450フィート(約442メートル)。
我々が登った時はもう夕闇で、夜景がとても綺麗だった。

ニューヨークではエンパイヤ・ステートビルに日中登った。
1931年竣工、102階建ての443メートル、展望台は86階(320メートル)にある。

我々はその展望台まで登った。確か途中でエレベーターを乗り換えたと思う。
展望台は外に出られる。高くてちょっと怖い。

目の前には2001年9月11日に、同時多発テロで破壊された「ワールドトレードセンターのツインビル」がそびえ立っていた。建設当時は世界一のビルだった。

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記念にエンパイアヤ・ステートビルの模型を買って来たが、何故か頂点のタワーが欠けてしまったのは残念だ。

アメリカの地図も買って来たので、ニューヨークのマンハッタンのページを下にして写してみた。

ついでに2016年7月、シンガポールの旅行に行った時のホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」は2011年2月開業、高さ191メートルの屋上にプールがあった。

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船をイメージしており、プールに入って下を見ると、ゾクッとした。

百貨店の終焉か  随想・日々是尺八

新聞によると、新宿西口にある小田急百貨店本館は2022年9月末に営業を終了と発表した。
つまり来年である。

西口再開発で跡地には地上48階、高さ260bの高層ビルが29年度に完成予定。ビルに小田急百貨店が入店するかは未定だそうだ。

現在の本館は14階建てで1967年に開業し50年以上経った。
私が新宿に勤務の頃は地下食料品、文房具、催事、レストランなどを利用した。

隣接する新宿西口ハルクに食料品などは移転するようだ。

同じ頃に建設された近くの京王百貨店も同じような経過をたどるから、いつ建て替えをするか分からない。

一方、東急百貨店は2023年春以降、東急本店の解体作業に着手すると発表されていた。

跡地には東急電鉄、東急百貨店、LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)グループの3社によって開発を進める。

隣接するBunkamuraも大規模な改修工事をする。
東急百貨店はすでに渋谷駅前の東横店を2020年3月末に閉店している。

東急百貨店での思い出は尽きない。

私が結婚を決意した時に、東急本店8階のレストラン「コートダジュール」は私の両親と、家内の両親の顔合わせをしたところだった。

Bunkamuraの大ホールで横山勝也の尺八と、鶴田錦史の琵琶による「ノベンバーステップス」を家内と聞きに行ったこともあった。

作曲は武満徹で開場前にロビーで見かけ、私は家内に知ったかぶりで「あれが武満徹だ」と指をさしてしまったところ、武満氏が気が付き、お辞儀をしてくれた。

面識はなかった。今でも思い出すと可笑しい。

私が20代の頃は未だ東横百貨店だった。
東横店には「東横ホール」なる大きなホールがあって、よく落語なども開催されていた。

ある時、青木鈴慕先生に推薦され、箏の社中の賛助出演に呼ばれて、その東横ホールにて宮城道雄作曲「高麗の春」を演奏した事があった。

とにかく大きなホールだったので、演奏していても音が散って、迫力を全然感じ無かった事だけは覚えている。

八王子の駅ビルも「そごう」だったのが、今は「セレオ」である。
府中も伊勢丹が閉店して、専門店街になった。

今、百貨店の独自の営業は難しい。
元々テナントに貸して、食料品は「のれん街」やレストランなど他店に任せている。
社員が専門性を身につけるのも大変である。

今や「ユニクロ」「ビックカメラ」「無印良品」「ロフト」「ダイソー」だらけで、代わり映えがしなくなって来た。

家庭菜園とその経過  趣味

今年(令和3年)の家庭菜園の様子です。

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これは枝豆である。手間が余りかからないから毎年枝豆にして、ビールのお供にしている。5月12日に種を蒔き、6月中旬こんなに大きくなりました。

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7月11日の撮影。そろそろ食べ時である。
7月18日に30個ほど試しに収穫。未だ皮が硬かったが旨さはある。

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こちらはブドウ棚(スチューベン)である。少しづつ大きくなっている。
今年は、思い切って剪定したのが良かったのか、気候に恵まれたのか、出来が良さそうである。これから摘房を繰り返し、7月に袋掛け、8月に収穫の予定である。

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このスチューベンは義父の頃からあったのを、私が引き継いだ。7月11日撮影。最初はブドウ棚は無く、このように曲がって育ってしまって、苦労してブドウ棚に這わせたのである。義父は袋掛けをしなかったから、鳥が食べ放題だったらしい。

このブドウ棚は何年経っているのだろうか。裏側の上部横木の丸太が腐って垂れて来たので、応急処置として、支柱を何本も束ねて上に缶からを乗せて支えたのである。分かるかな?

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7月10日いよいよ房が大きくなって来て、一部茶色く色づいて来た。
もうこうなると鳥が目ざとく食べにやって来る。鳥と競争である。

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邪魔な枝を剪定しようと気を付けて枝を切ったつもりが、この通り立派なブドウを切り落としてしまった。

今年は出来が良かったので、房が二手に分かれた物は片方を剪定した。小ぶりも選定したから、かなりの量を剪定した事になった。

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7月16日に袋掛けを始める。毎年100枚は買って来るのだが、それ以上のブドウである。
昨年のきれいな袋も再利用して、今年は数えながら袋掛けをしたところ、115枚だった。

このブドウ棚は八王子市のシルバー人材センターにお願いしたのだが、ご丁寧に上部横棒の間隔が狭く、一本置きに外しながら袋をかける。

そうしないと高いところは脚立を使用するので、頭が上に出ない。結構苦労するのである。簡単では無いから農家の苦労が分かる。

今年は房がしっかり出来ており、十分満足出来る。収穫が楽しみである。

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こちらはアガパンサス。手前はもう散ってしまったが紫蘭である。
写真には写っていないが、今年も白ユリ、スズラン、アジサイも綺麗に咲いてくれた。

飯田市の紹介  随想・日々是尺八

自分のブログを見ると、追加したい事が次々と出て来るので、一度アップしても毎日のように日付けが変わる。

今年1月の事であるが、テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」に飯田市のトマツ本店の「逆さから読むとエッチな言葉」として、トラックに書いてある「ヨイタネトマツ」(良い種トマツ)が紹介された。(残念ながら私は見逃して、妻から聞いた話)

確かに逆さから読むと「ツマトネタイヨ」である。

この会社は創業100年以上になる、種苗販売店である。
当時は松尾町に昔からあり、大正8年生まれの母が女学校の頃から、そこを「可笑しい」と笑いながら通ったと話していた。

私も高校の頃、ここを通る事があり、店の上に掲げられた大きな看板に筆字で左から「ヨイタネトマツ」と書いてあったのを確認している。

飯田市の事が話題になったので、ここに飯田市の概要を記そうと思う。

飯田市の面積は658.66平方キロメートル、人口96,255人(2021年5月現在)である。

手元に「飯田市の観光ミニ事典」がある。サブタイトルは「りんご並木と人形劇の街」になっている。

この本は、亡き母が飯田信金のコラムに応募して掲載された時の、謝礼だった。
巻頭を飾るのは岸田國士(くにお)の「飯田の町に寄す」で次の通り。
 
「飯田美しき町 山近く水にのぞみ 空あかるく 風におやかなる町。飯田静かなる町 人みなことばやわらかに 物音ちまたにたたず 粛然として古城のごとく丘に立つ町。飯田ゆかしき町 」以下略

岸田は戦争中の昭和20年頃、飯田(当時は鼎町)に疎開して、その娘女優の岸田今日子は現在の飯田風越高校に通った。

飯田市は、江戸時代飯田城(長姫城)を中心にした城下町(旧飯田市)である。
街並みは碁盤の目のようで、小京都と呼ばれている。

城下町だけあって、町名には追手町、馬場町、伝馬町、小伝馬町、銀座などがある。

旧飯田市は河岸段丘の上にあり、遠くに南アルプスの赤石岳(3121m)や聖岳(3013m)が見え、近くには風越山(かざこしやま・ふうえつざん)(1531m)や虚空蔵山(1130m)がある。

河岸段丘の下には松川が流れ、やがて天竜川にそそぐ。

以前は暴れ天竜と言われ急流だったが、下流に佐久間ダムが出来て、少し穏やかになった。天竜下りは有名である。

以前は市田から天竜峡まで1時間30分だったが、今は弁天港から時又港(35分)と、天竜峡温泉港から唐笠(50分)まで行く。

いつの事であったか、舟会社は2社あり、その内1社に我が家の2階を事務所として貸していた。
ガイドさんの名調子を我々家族もそらんじて、今でも言える。
ただ、たった一人のおじさんがふすまに頭髪のポマードをこすりつけて臭く、その上汚して母が愚痴ていた。

飯田市は南信州で下伊那郡に入る。
長野県歌の「信濃の国」はいい歌だが、下伊那にもいい歌がある。

「下伊那の歌 その1」は元気が良く今も歌われているらしい。
「赤石は山並み青く 天竜は川並み白く 母のくに 母のくに 伊那は故郷ーーー」

「下伊那の歌 その2」は静かで落ち着いた曲調だ。
「山紫に水遠く 南の風の吹き香る 揺籃の地をーーー」

これらの曲は作詞を募集して作られ、我々は中学校で習った。
この「その2」の作詞は、我々の追手町小学校の校長先生の池田寿一氏だった。
詩の解釈が難しく、余り歌われていないようだが、いい歌だ。

飯田市の市歌があるかと検索したが、「飯田市歌」は私の知らない曲だった。
私がそらんじているのは、次の通り。
「山はアルプス赤石の 峰に輝く白雪を―――我らが飯田」
多分これも中学で習ったと思うが、検索出来ない。

小学校は飯田市立追手町小学校に通ったが、1872年設立だからもう150年近くになる。
校舎と講堂が2005年、国の登録有形文化財に登録された。

1961年NHK唱歌コンクール小学校の部で全国1位。課題曲は「わかいおじさん」でYouTubeで聞ける。確かに上手い。

追手町小学校の校歌が良い。
「長姫城の名に残る 昔のあとは変われども 今ぞ栄ゆる学び舎の 庭の教えも年事に 進みゆくこそうれしけれ」

飯田、下伊那地区は赤石山(岳)、風越山、天竜川を歌詞に入れるのが定番である。

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飯田高校の校庭から望む風越山。

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飯田病院の2階から望む風越山(左)と虚空蔵山。

飯田市立東中学校の校歌は
「暁の空澄み渡り 若草もゆる東野に 風越山の風そよぐーーー」

飯田高校の校歌も紹介しよう。
「赤石山は巍巍(ぎぎ)として 我が南信の骨をなし 天竜川はいだとして 我が伊那郡の血を成せり―――夏風越(かざこし)の青嵐ーーー長姫城の秋の月ーーー」と歌われる。

ブラバンでライバルだった飯田長姫高校(現飯田OIDE長姫高校)も是非紹介したい。
1954(昭和29)年、春の選抜高校野球で光沢毅投手を擁して全国大会優勝。彼は「小さな大投手」と言われた。ほとんどの家庭でラジオを聞き、町なかが静かだったと父は言っていた。パレードがもの凄かった事は写真に残っている。

飯田市は1947(昭和22)年、4月20日大火に覆われ、旧市内をほとんど焼き尽くした。我が家は火元の西側にあり、火事にはならなかったようだ。後年、酒田市で大火があった時に、過去の大火として飯田市が新聞に載った。

1961(昭和36)年6月、三六災害に見舞われた。私が中学1年生の時だった。我々は通称、三六災(さんろくさい)と言う。
今で言う線状降水帯(集中豪雨)であろうか。

町の道路は川になり、今宮球場は土砂で埋まり、川は氾濫。浄水場も土砂で埋まった為、自衛隊が給水車を出した。私も自宅前の給水車で水を汲んだ覚えがある。

通っていた東中学校の校庭は自衛隊のヘリポートとなり、授業中はパタパタとしばらくうるさかった。

飯田名物に「りんご並木」がある。
横一線にりんご並木の通りがあり、りんごの木が中央に植えられていて、東中学生の「緑化部」が草を取ったり、管理している。(実際の消毒や袋掛けは業者)

昭和22年の大火のあと、東中学の生徒達の「自分達の手で美しい街並みをつくりたい」の気持ちから誕生し、「誰もりんごを盗まない」など美談になっていると我々は道徳で習った。
収穫したりんごは給食で食べた事がある。

1975(昭和50)年、中央道の飯田インターチェンジが開通して、新宿までつながった。
従って、それまでは飯田駅からJR急行「アルプス」で上京したのが、中央高速バスに代わった。

新宿バスタから飯田駅前まで約4時間ちょっと。陸の孤島と言われる所以である。
私がつきみ野に住んでいる頃、新宿駅からつきみ野駅がこれ又、1時間30分位かかった。

今、リニア中央新幹線が話題である。工事はかなり難航、様々な問題を抱えている。
私の生存中に出来るか分からない。出来たら神奈川県橋本駅から長野県駅の飯田まで15分位らしい。夢のような話だ。

中央道掘削時に温泉が噴き出し、昼神温泉郷が出来た。

旧南信濃村の遠山郷も飯田市になり、静岡県と隣になったとは驚きだ。
未だ下伊那には飯田市より南に阿南町、下條村、阿智村、平谷村、売木村、天竜村などがある。

俳優・タレントの峰竜太は下條村出身である。

飯田、下伊那は伝統芸能が盛んで「大鹿歌舞伎」は映画になったし、遠山郷の霜月まつり、人形浄瑠璃の黒田人形座・今田人形座は有名だし、「いいだ人形劇フェスタ」は毎年夏に行われ、世界から演者が集まる。我が家も子供を連れて見せた事もある。

6年に一回お練り祭りがある。申年と寅年だから、来年3月末の3日間に実施予定らしい。
街を挙げての大騒ぎとなる。5年前にブログに書いたところ、知人がわざわざ日帰りで行って来たと聞かされてびっくりこいた。

私は毎回ほとんど見に行っている。親類も集まって来る。友人にも会える。

各地区から出し物があり、「東野大獅子」は毎回追っかけ、銀座商店会は「次郎長踊り」、本町三丁目は「大名行列」だ。

私は中学1年時に妹と「大名行列」に参加した。私の実家は正真正銘の本町三丁目だからだ。その時は鉄砲隊でただ歩くだけだった。

飯田を語る時に忘れてはならない事は、地場産業である。
水引は日本一の生産量を誇る。落語「文七元結」の話の元となった「桜井文七」の墓は長昌寺にある。

城下町だったので和菓子が美味い。どこの和菓子でも美味しいが、特に有名なのは東京銀座歌舞伎座の地下でも売っている「和泉庄」の「名代大きんつば」は甘過ぎない。

東京の百貨店の催事で出店したのは、和泉庄の他、春月の「おたふく豆」、京王ストアのチラシに載った「いと忠」の「巣ごもり」は私も買って来た。

さらに有名なのは市田柿、五平餅、馬刺し、おたぐり(馬のモツ煮)、蜂の子など。
おたぐりは実家の町内の「三ツ輪食堂」で食べられる。

蜂の子は缶詰になっており、高級品故に我が家ではお正月にお客さんに出したり、炊き込みご飯にして食べた。珍味でタンパク質が取れる。

大学生の頃、友人が遊びに来た帰りに蜂の子缶詰を土産に上げたところ、開けてびっくりして捨ててしまったと聞いて悲しくなった。

戸田屋の半生菓子は時々スーパーで見かける。かなりのシェアーらしい。

地酒は喜久水で、名水百選に選ばれた「猿庫の泉」の名前そのものや大吟醸「聖岳」などがある。地元の宴会で飲む日本酒はほとんどが喜久水である。

実家に帰った時には時々買って持ち帰る。一時期、銀座のアンテナショップ「長野NAGANO」で販売していて購入した事もある。

飯田市が日本一を誇るのは、未だある。
人口1万人あたりの焼き肉店が日本一なのだ。私が小さい頃、親父は良くジンギスカンを食べていた。

最近、新宿東口に「焼肉ジンギスカン飯田屋」が開店したはずなのに、コロナ禍だろうか、もう閉店したそうだ。

遠山郷のジビエ料理「鹿肉」「猪肉」などの鍋は、時々テレビで紹介される程だ。
いつも我々が泊まった「島畑」のおじさんが出るので、笑って見ている。

年を取ると望郷の念が募るんだに。

昭和の巨星墜つ  音楽

小林亜星がこの程亡くなった。88歳である。
彼は作曲家として歌謡曲やCMソングを数多く発表してきた。又、「寺内貫太郎」で役者としても活躍した。

彼の作品で思いが強いのは、都はるみが歌った「北の宿から」、幼児向けの「ピンポンパン体操」「あわてんぼうのサンタクロース」は流行った。

CMで印象深いのは「どこまでも行こう」「明治チェルシーの唄」そして、「日立の樹」であろう。
「日立の樹」は「この木なんの木」で有名だ。

本当に気になっていた木だ。そんな木を見てみたいと思っていた。

それが1988(昭和63)年のNCR米国流通業視察団でアメリカに行った帰りに、ハワイに寄る事が出来た。(サンフランシスコで視察団と別れた)

会社の先輩と二人でオアフ島に行き、ツアーを申し込んで、ラッキーな事に「この木」に遭遇出来たのであった。広い公園の中にあり、「モンキーポッド」と言う名前らしい。

CMでは1本の大きな木に見えるが、実際は周りに何本も生えており、そこだけをクローズアップしたようである。でも感激したよ。この木だったのかと。本当に枝ぶりが良かった。

先日、寺内タケシが亡くなった。82歳であった。
今はちょうど自宅待機中であらゆるYoutubeを聞きまくり、ザ・ベンチャーズなど何回も聞いていて、あっそうだ寺内タケシの演奏もと思い、「運命」「津軽じょんから節」などを聞いていたところである。

最近はどうしているのかなと心配していた。
彼のテクニックはもの凄く上手く、津軽三味線奏者もびっくりの演奏だった。ベートーヴェンが生きていたらさぞかしびっくりした事だろう。 

話はそれるが、ザ・ベンチャーズの有名な曲に「ダイヤモンドヘッド」がある。
上記のとおりハワイに行った時のツアーはオワフ島一周だったので、ダイヤモンドヘッドにも車で行った。

ところが行ってがっかり。中はクレーターで何も無かった。

日本にも三大がっかりがある。
いろいろな説があるが、札幌の時計台、高知のはりまや橋、長崎のオランダ坂らしい。
いずれも訪れたが、まさに行ってがっかりした所だった。

今度は6月21日に原信夫が亡くなった。94歳だった。
ジャズサックスの第一人者で「原信夫とシャープス&フラッツ」のバンドを率いた。

1967年ニューポートジャズフェスティバルに参加した時に、尺八の山本邦山をゲストに迎えて「尺八でジャズ」が人気となり、山本邦山も一世を風靡した。

原信夫は美空ひばりが歌った「真赤な太陽」も作曲して、その軽快な音楽は皆をワクワクさせた。

この曲は実は尺八にピッタリで、ライブやらで何回も演奏をした。
独奏でも演奏したが、飯田在住のギタリストK氏の伴奏での演奏は調子よく気持ちよかった。

昭和の巨星が次々に亡くなって行く。次は誰か?まさか○○か?

黒幕のユーフォニアム  音楽

先月の「題名のない音楽会」に、「地味な黒幕楽器」として、ビオラ、ファゴット、ユーフォニアム、チューバの4楽器が紹介された。

テレビでは「ラデッキー行進曲」を4人で演奏していた。ユーフォニアムは結構、高音域の主旋律を演奏しており、きれいな音だった。

地味ではあるが「黒幕」とは失礼ではないか。辞書によると「陰で指図をする人」とある。政界の黒幕は良いイメージでは無い。陰で支える楽器だ。

元NHK交響楽団の首席オーボエ奏者の茂木大輔氏によると、楽器により性格が分かるなんてえ本がある。ユーフォニアムの演奏者は総じて大人しい。表に出ず主役を引き立てる役だ。

尺八で言えば第一尺八のメロディー吹きでは無く、2尺管当たりの低音だ。

確かにトランペットは金管楽器の花形であり、クラリネットはオーケストラのバイオリンに代わるメロディー楽器である。

私は中学、高校の5年間ユーフォニアムを担当していた。
我々の頃は、ユーホニュームと称しており、小バスやバリトンの改良型である。

何故5年間かと言うと、中学2年時に父兄たちの寄付により楽器を購入して初めて「吹奏楽班」が出来たからである。(1年時は卓球班)

「吹奏楽班」に入るには、試験があった。簡単なリズムが黒板に書いてあり、それを両手を使ってリズムをとった。

担任の先生には「クラスの仕事をしてもらいたいから」と反対された。
友人はそれで諦めた(級長を務めた)が、私は「どうしても吹奏楽班に入りたい」と言って許可された。

楽器選びでは、小学生時にやった小太鼓をやろうとしたら、後輩がもっと上手かったので諦めた。

唇が厚めだから、トランペットはマウスピースから息が漏れてしまう。
クラリネットはリードが吹くときにくすぐったい。

ユーホ二ュームはマウスピースがやや大きく、すぐに音が鳴って、これだと決めた。
運命の出会いであった。ジャジャジャジャーン。

入班を諦めた友人も3年時には「吹奏楽班」に入り、トランペットを担当した。その友人とは高校も同級になって、一緒に「吹奏楽班」で活躍した。

彼は実は、飯田市の長昌寺の住職で立川談四楼とご一緒(私は尺八)の企画をしてくれた人である。

ユーホニュ―ムは中音域を担当する、本当に素晴らしい楽器である。吹奏楽にはあるが、オーケストラではほとんど見ない。それが非常に残念に思っている。

大学に入ってユーホニュ―ムは考えず、持ち運びが出来る尺八と決めていた。

高校を卒業して何年か経ったときに「吹奏楽班」に行って見た時、ユーホニュ―ムのピストンは3個から4個に変わっていた。

我らの頃は、アサガオ(ラッパ状)の部分が長く、大きく開いており、持つのにバランスが悪かった。持ち上げると重いし、膝に乗せると猫背になって姿勢が悪くなる。

中音域だと言ったが楽譜はへ音記号であるから、低音にはなる。
このへ音記号のお陰で、ピアノを弾いた時にスムーズに左手の楽譜が読めた。

チューバは大バスで、その中間の大きさに中バスという楽器もある。
行進する吹奏楽では見栄えのするスーザホンは大バスの改良型だ。

行進曲では、その低音域のグループが大概、ドソミドなどを繰り返し1拍目、2拍目を刻む。

その間にホルンなどが、ウンパウンパとやるのである。
分かったかな?

もちろんそれだけでは無く、対旋律という大事なメロディーを演奏する。
これが大事だ。

タイケ作曲の行進曲「旧友」における対旋律は、すごくきれいだ。
高音から滑らかに下ってきて、再び高音に上がって行く。言葉では難しい。
ぜひYouTubeで聞いて欲しい。

しかしそれだけでは無い、後半には、ちゃんと低音部が活躍する良いメロディーが用意されている。

中学、高校を通じてかなりの行進曲を練習してきた。
大概のメロディーを覚えているし、運指まで分かるくらいだ。

中学では「海兵隊」から「君が代行進曲」「軍艦マーチ」「立派な青年」などを練習した。

高校ではスーザ作曲の「忠誠」「ワシントン・ポスト」「雷神」「士官候補生」「エル・カピタン」「星条旗よ永遠なれ」「海を越える握手」「美中の美」など。

その他、「錨を上げて」「ボギー大佐」「史上最大の作戦」「国民の象徴」「ロレーヌマーチ」「双頭の鷲の旗の下に」。

タイケ作曲にもう一曲「ツエッペリン伯爵」があった。これも低音部の活躍が素晴らしい。ドイツらしく重厚だ。

日本人の作曲では須磨洋朔作曲「大空」やレイモンド服部作曲「コバルトの空」、古関裕而作曲「スポーツショーマーチ」など。(スポーツショーマーチはNHKのスポーツ番組の為に作曲されたそうだ)

前回の東京オリンピックは1964年で、私が高校1年生の時だった。
開会式の行進には古関裕而作曲「オリンピック・マーチ」が採用された。

名曲だが、我が高校は練習しなかった。当時のライバル校の飯田長姫(おさひめ)がかなり上手く演奏していたのを覚えている。

それでもユーホニュームで唯一花形だったのは、高校文化祭3年時での「ベサメムーチョ」のソロであった。

いきなり立ち上がり、メロディーを演奏する。一度も座らない。最後まで立ちっぱなしである。

最後にはカデンツゥア(即興的な完全なるソロ)があり、テクニック的にも難しいが、良く選曲してくれたと感謝している。

新聞に投稿が掲載される  随想・日々是尺八

5月26日に私が投稿した文章が新聞に掲載された。
初投稿なので、幸運だった。

掲載されたのは東京新聞の「つれあいにモノ申す」のコーナー。
ただし氏名もペンネームも出てないから、誰だか分からない。

文章は次の通り。

別荘
妻が「ここは鳥が鳴くし、緑に囲まれて、まるで別荘みたいね」と満足そうに言った。
ちょっと待って。四季折々の花が咲き、芝生もきれいなのは、私が丁寧に手入れをしているから。私も褒めてほしい。
(夫婦で旅気分・72歳)

となっている。
ほとんど投稿の通りだが、最後の()部分が替えられた。

私は(料理はホメない夫)と書いたのだった。

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参考までに掲載された新聞をご覧ください。

立川談四楼  芸能

5月23日の東京新聞に「モノ言う落語家」立川談四楼が大きく取り上げられた。

半ページにも及び、本人もその取り扱いの大きさにびっくりしていた。(師匠のブログによる)

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右側の写真は師匠お気に入りの写真で、ブログにも載っている。

左下の写真は上野広小路亭で、かつて私もこの写真をアップしている。
立川流はここを定席としていて、私は何回も通った。

私と談四楼師匠との関係は、度々取り上げてきたから、ここでは省略する。

新聞では落語は「生きるために必要だ」

内容は、緊急事態宣言の中、上野広小路亭の夜席は17人程度。本来なら終わって芸人同士軽く一杯が出来ない。スーパーで食料と酒を買って家飲み。

落語の二協会がクラウドファンディングを始めた。

政治家に対するコメントが鋭い。
アベノマスク批判、犬抱いて座っていたり、ワクチンで電話回線がパンク。上の人が勝手に先に打って、そんな話はないよ。

官房長官は寄席を「よせき」と読んだ。こういう人たちの収入は減らない。
モノを知らない人が、収入の途絶えた人をいじめているんだ。

一番の要望は「補償」だ。
政治家は言葉、です。全く心に響かない。「私を説得してください」
文化芸術、エンタメは「彼ら」に言わせると不要不急。

でも、絶対的に必要なんだ。ビタミンであり、タンパク質。
ドイツの文化大臣も「具体的に生きるのに必要なんだ」

政治家の皆さんに落語を聞いてもらいたい。古典落語の「浮世根問(うきよねどい)」や「やかん」など。

コロナ対策でうまく行っている国は国民の声をよく聞いている。
政治は日常。政治を語るのは「ダセえ」じゃない。(以上新聞より)

飯田で一緒に飲んだ時も、よどみなく「立て板に水」だった。

NHKラジオで土曜日の朝、時々「立川談笑」も話をする時がある。

落語家は本当に話が上手い。政治家も原稿の棒読みではなく、もっと抑揚を入れて、魂を入れて、二ホン国民のためにもっともっと働いて欲しい。

ビールの飲み比べ  グルメ・クッキング

最近のビールの話である。

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これは発売と同時に販売中止になったアサヒ「スーパードライ 生ジョッキ缶」である。(写真左)

「泡が出る ゴクゴク飲める」「日本初 全開!生ジョッキ缶 」の謳い文句で、予想以上に売れたそうだ。

缶上のプルタブが全面になっており、この生産が間に合わないという。

たまたま手にしたので飲んでみた。泡は確かにクリーミーに出て、生ビールを思いださせた。味は「さらりとした飲み口、キレ味さえる、いわば辛口の生ビールです」と表示してあるが、ウーンさっぱりかな。

私は通常、ビールはレギュラーより小さなものを買っている。

サントリーのプレミアムビールはやはり美味いが、アサヒ、キリンより高い。

そこで私はキリンの「一番しぼり」を買っている。やはり通常はこれだ。

ビールと言えば思い出話がある。

大学2〜3年生の頃の夏休み、父親の紹介で飯田市のキリンビール販売店でアルバイトをした事がある。

そこはキリンビールの特約店になっており、その店から街中の酒販売店へとビールを届けた。

トラックに運転手とアルバイトが2人乗り、樽の生ビールと20本入りの大瓶を何ケースも積んで行った。

飯田市は旧市内の店は近いところに何件もあるから、頻繁に降りて運ぶからつらい。

毎日おかみさんに指示されて、時には木曽方面の大平峠や、大鹿村まで行くのだが、街中と違って道路が悪い。舗装されていない道だとガタゴト走るから、飛んだり跳ねたり随分弾んだ。

そんな田舎に限って、量が多く、ケースを重ねるのに私の力では4段辺りからかなりきつかった。
しかし、アルバイトだから毎日ピクニック気分で楽しかった。

運転手は扱いが荒い。時にはケース上を滑らして、大瓶の栓を壊してビールがあふれ出た事があり、その時のビール臭さを忘れない。

その後45年程経た、今から5年前の飯田市お練り祭りに帰省して、おかみさんに会った。
昔話をして、おかみさんも「いろんな所に行けて良かったね」と笑いながら会話した。

やはり大学生の頃、飯田市で「いとこ会」があった時、キリンビール瓶の絵に「キリン」の字が書いてあると言われ、必死に探した事を思い出す。

キリンラガーが全盛の頃、アサヒが「スーパードライ」を開発して、爆発的に売れた。

そして各社は「ドライ」を次々に開発しだした。ひと頃はまるでドライだらけだった。

その頃、会社の部下の女性の結婚式に招待されて私が祝辞を述べる時、卓上にスーパードライが出ていた。

とっさに彼女をホメようと「スーパードライのように頭の切れが良く」と浮かんだ。
アサヒビールの売り文句は「切れが良い」だった。

ただ、アサヒは「ドライ」にこだわり、他社は新製品の開発で売り上げを伸ばしたが、アサヒは伸び悩んだ。

そこで、生ジョッキ缶の開発である。

果たして、アサヒは起死回生となるか。




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