北原鈴淳尺八教室in八王子  音楽

  
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  指導者  鈴慕会 大師範

            
            北 原 鈴 淳







音楽歴  
長野県飯田市立追手町小学校5〜6年で器楽班に入り、小太鼓を担当。

東中学校2年から飯田高校の吹奏楽班でユーホニュームを担当(5年間)

大学の三曲研究部で琴古流尺八を始め、故二代青木鈴慕・人間国宝(2018年8月21日死去)に師事
      
1972(昭和47)年1月 浅草国際劇場の「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」 で10日間「仁義」「盃」「誠」を尺八伴奏
      
1976(昭和51)年 渋谷東邦生命ホールで尺八リサイタル
曲目「みだれ」「一定」「箏四重奏曲」「詩曲」「鹿の遠音」「千代の鶯」

1991(平成3)年3月 NHKFM放送「邦楽のひととき」
に「明治松竹梅」出演
さらに1991(平成3)年7月「泉」、1992(平成4)年「末の契り」、1992(平成4)年6月「泉」再放送、など出演

      
2007(平成19)年 北原尺八教室をめじろ台に開設

2016(平成28)年、芸歴(芸道・竹道)50年を迎えた

稽古場 東京都八王子市めじろ台2丁目
      (京王線めじろ台駅徒歩6分)
     
      電話 042−668−1278
(お問い合わせは午前8時〜午後8時まで)

稽古日 日曜日・月曜日・火曜日・木曜日(午前10時から午後5時までの予約制)        
    ご希望により他も可能な日(午前中など)があり、ご連絡下さい。
月謝   
月2回、5000円 (1回約50分間)
月3回、7000円 (1回約50分間)
月4回、8500円 (1回約50分間)
ワンレッスン、3000円 (約1時間)

その他、ご希望により特別ワンレッスン2時間を設けます。(5000円)

入門料 3000円(ホームぺージご覧の方は半額の1500円)
      入門者には自費出版のCD1枚差し上げます。

初心者から対面式で一人一人指導します。まずは基本の音出しから。
 古曲を中心に宮城曲、現代邦楽、歌謡曲までご希望にも応じます。

琴古流本曲 三谷菅垣・雲井獅子・虚空鈴慕・鹿の遠音 など

地唄筝曲  黒髪・千鳥の曲・笹の露・残月・八重衣 など

宮城曲   春の夜・春の海・初鶯・泉・虫の武蔵野 など

現代邦楽  風動・詩曲・一定・萌春・出雲路・箏四重奏曲 など

その他ご希望により 童謡・唱歌・歌謡曲(著作権法に触れない曲)など

体験レッスン 500円(約60分) ご予約ください

初めての方には、安価な樹脂製の尺八「悠」(¥11000+税で、良く鳴ります)を取り寄せます。竹製欲しい方は、別途ご紹介します。
取りあえず、貸し出し用のプラ管あります。

練習の状況により箏や三絃と時々合奏練習をして、年に一度は稽古場でおさらい会をします。

1976年北原康夫尺八リサイタルより、
杵屋正邦作曲・尺八独奏曲「一定」(いちじょう)が聞けます。
長澤勝俊作曲
「独奏尺八のため詩曲」
上記、青色線をクリックしてください。

金曜日・土曜日は箏・三絃教室も開いています。
こちらのホームページをご覧ください。
http://ivory.ap.teacup.com/koto8/


近況と雑感(4/21) 

2月5日に頼んだDVDが4月16日にやっと出来て受け取った。カビの除去やコロナの影響で遅くなったようだ。

昭和61年の「萩の露」、62年の「壱越」は私が38歳頃の演奏である。所どころ間違って演奏しているが、勢いがある。頑張って演奏しているなと思う。

八王子市では新型コロナワクチンの接種が始まった。
私も高齢者でお知らせが来たが、開封しただけで、もう受付終了だって。

先日、テレビで大阪桐蔭高校の吹奏楽の演奏を聞いた。とても素晴らしかった。

100人以上部員がいるのだろうか。パフォーマンスもあり、何曲も演奏したが良くそろうものだと感心する。我々が高校生の時は25人がやっとだった。

卒業して音楽への道に進まない人も多く、残念ではある。

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春本番である。自宅のささやかな芝桜も急に満開となった。
雑草取りが大変だ。雑草とは言っても名前はある。名前を知りたくて図鑑を買った。可憐な花を咲かせるのは、そのままにしておく。

雑草ではないが地下茎のドクダミ、ミョウガ、紫蘭、スズランがどんどん延びる。ドクダミは取っても取っても生える。困ったものだ。

花ニラもきれいな花が咲くが、ニラと間違えて食べると毒なので、除去している。

昨年暮れに蒔いた「万能ねぎ」がやっと収穫出来て、そばつゆに入れて食べた。まあまあである。冬は太陽が当たらないので半分諦めかけていたのだ。

それでも少しづつ大きくなって来たので、収穫に至った。
再来週には又、今年も枝豆を蒔こうとしている。

ある週刊誌に五木寛之のコラムがある。
最近、漢字がすっと書けない。躓く(つまずく)なんて思いつかない。
そこで考えたのは、「質屋に向かって歩いたら、足で躓いた」で漢字を覚えたそうだ。なるほど、これは忘れない。


門下生へ
皆さんお元気ですか?早くコロナ禍が終息すればいいですね。



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路線バスの旅  旅行

コロナ禍で、人混みを避けるため電車で遠出が出来ない。
毎日、草取りも疲れる。やはり気晴らしに出かけたい。仕方がないから近場で過ごす。

幸い「シルバーパス」を手にして、西八王子駅や八王子駅に無料で行ける。
西八王子には携帯電話会社、八王子にはヨドバシカメラに買い物に行く。

路線バスである。旅ではないが、めじろ台から私が望んだ路線が充実してきた。

新宿まで電車で通って勤務していた頃は、ほとんどバスには乗らなかった。しかし今はバスが頼りで便利である。

テレビでは盛んに路線バスの旅が放送されている。

テレビ東京の「ローカル線バス乗り継ぎの旅」は太川陽介と蛭子能収とマドンナで面白かった。

蛭子さんが番組を引退してからは「ローカル路線バスVS鉄道乗り継ぎ対決旅」は太川陽介がバスチームリーダーで、鉄道の村井美樹が鉄道チームリーダーだった。

村井は某新聞に鉄道に関するコラムを掲載するほどの博識で、その対決は感動さえした。私はひそかに村井を応援していた。
勝った負けたで涙もあり、ハラハラドキドキしながら見ていた。

日曜日の午後4時15分に放送される、テレビ朝日の「路線バスで寄り道&お買い物の旅」は徳光和夫と田中律子にゲストである。
最近は人混みを避けるためか、路線バスを使わず、貸し切りバスのようだ。

まあ見ていると徳さんはいい年をして、昼間からよく食べ、よく飲むものだ。それにバスの中ではほとんど寝ている。

路線バスではなかったが、以前NHKで「キッチンが走る!」の番組があった。(2010年〜2017年)

杉浦太陽君とシェフが一緒にキッチンカーに乗り、全国を回って、地元の食材でその場で料理する番組だった。

ある時は和食、ある時はフレンチ、イタリアンなどのシェフと美味そうな料理を作り、農家の方とも一緒に食べていた。あの番組で太陽君は随分料理が上手くなった事だろう。

私の田舎にもキッチンカーが出向いた時があった。
その時、大横町の麹屋さんの「嶋田屋」が出て「麹商品」を買って行った。

「嶋田屋」さんは本名「井伊」さんで、その頃NHK大河ドラマは柴咲コウ主演の「おんな城主 直虎」を放映していた。

店内には、井伊直虎の末裔の家系図があり、井伊さんは末裔だったのだ。

話は続く。これが言いたい。
実は、嶋田屋さんに入る前に、大横町の街並みが映り、我が実家は嶋田屋さんの目の前だったから、全国に我が家が映ったのである。ほんの瞬間ではある。

テレビの影響・反響は大きく、かなりのお客さんが嶋田屋さんに「麹商品」を買いに来たそうだ。

私が小さい頃、麹屋さんに入って麹を作っているところを見たことがある。蒸気が立ち込め、米にカビが生えていると思った。

さて路線バスの話に戻る。
日曜、夜のテレビ朝日では「帰れマンデー見っけ隊」がある。
タカアンドトシ、サンドウィッチマンらがレギュラーで、ゲストも交えて路線バスに乗り、すごろくでバス停を決めて、飲食店や寿司店を見つけて食べて目的地に行く番組である。

その他にも女子会でバス旅もあるが、とにかく飲んでばかりだ。

本題に入る。
めじろ台から西八王子駅までバスで約15分。八王子駅南口までのルートは何本もあるが約30分である。

ところがこの度、山田駅経由八王子駅南口行きの新たな路線バスが出来た。
先日帰りにこのバスにちょうど間に合ったので乗ったら、何と15分で着いた。

これは渋滞が無く、めじろ台駅の一つ前のバス停「めじろ台南」が最寄りとなったので、かなり時間が縮小されたのである。

乗ったバスはめじろ台南の前のバス停でほとんどの人が降りてしまい、あとは私一人だけ。

シルバーパスの無賃乗車で、その後は空のバスで申し訳なく思った。
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「スマホ」デビュー  携帯

2月に、ついにスマホデビューした。もちろん初めてのスマホである。

前回購入した携帯電話の賞味期限が切れ、いや2年契約が切れて、晴れてスマホデビューである。

他人より先んじて1996(平成8)年にPHSを使用したのだけれど、スマホでは随分遅れをとった。この24年間いったい何台の携帯電話を使用したのだろうか。

スマホ購入が遅くなったのは、決して安くはない利用料金に躊躇していたからでもある。費用対効果である。

ここで踏ん切りがついたのは、外でもない月額料金が下がって来たからである。さらに携帯電話ではインターネット接続が困難だった。このブログも見られない。

今度のスマホは5分間無料で電話が出来る。

スマホ教室に今まで8回通って、アプリやらメール、LINE、カメラについて習っている。

買ってすぐにこのアイコンは何かなと触ると、3人程誤って電話がかかってしまい、あわてて終了させて、SMSで「間違いでした」とメールする始末。

以前、夜中に電話が鳴ってあわてて出たのだが、スマホを買ったばかりの人が操作を誤ったらしい。まったく同じことを私はしたのである。

スマホ教室は予約制で一日3回行われている。
スケジュール表を見て予約すると、私のスマホに予約受付しました、とメールが来て、ご丁寧にスマホ教室の前日と、当日に確認のメールが来る。

それを当日、教室でスマホの画面を見せるのである。
ある時、「電話のかけ方教室」の定時の10分前に行ったところ、定員3名がもう座っている。私は間違っていないと係員にスマホを見せ話をしたところ、あるおじさんが違うらしい。

ところがそのおじさんが、「俺は店頭で言ったのよ。何回か来て言ったんだ」と激しく抵抗して、挙句の果てに「こんなスマホは捨てちゃうぞ」とか言って、スマホを手に持ち上げた。
「電話の仕方が分からないから来てるんだ」とか。

私が予約制の話をしてスマホを見せて「このような予約のお知らせが来るんです」と言ったが納得がいかないらしいので、「じゃあ、私は帰りますからおじさんそこにいていいですよ」と、なだめた。「いいよ。俺は帰るよ。だけど電話の仕方が分かんねえのよ」

そこで女性の係員が来て他の席に案内して、説明を始めた。
結局は私が座って事なきを得た。

未だスマホ教室に通う予定がある。

さて、20日は彼岸である。
16日に義弟の車で4人で墓参りをした。コロナ禍で本当に久しぶりに行った。
枯れた草や落ち葉を取り除き、墓石を丁寧に洗う。
管理事務所で仏花を買い、花瓶にいける。

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初めてのスマホカメラデビューである。バシャリの音が何とも心地よい。
ここは高尾山のふもとである。やや高台の見晴らしの良い墓地である。

この墓は義父系列と我が家の共同の墓地である。
この中にはもうすでに、義父の祖先、義父、義母が入っており、やがて私が入る予定の墓である。

墓石には書道の先生だった義父の字入れで「天道」と彫ってある。
義父は東日本大震災の4日前に亡くなったからもう10年になる。その直後にこの墓を作ったのである。

左隣は元空き地だったが、いつの間にか墓石が立っていた。それが我が家とほとんど同じ作りだから、参考にしたのだなと思った。

私は常にカバンを持ち歩く癖になっている。取り合えず反対側の墓の所に置いていた。
お参りを済ませて時計を見ると、もう12時10分前だった。

実は12時に行きつけの和食店の予約をしていたのだ。「アッ!もう時間がない」と号令をかけ、掃除道具を片付けて急いで車に乗った。

普通に行っても5分位は遅刻だ。もう半分位走ったところで、私のカバンが無い事に気が付いた。和食店に遅刻の連絡をしようにも、スマホに電話番号を入力してなかった。

あわてて墓に戻ってもらった。カバンは私を寂しそうに待っていた。

結局15分位遅れて和食店に着いた。お詫びを申し上げ、膳についた。
天気も良く「エビスビール」は格別旨かった。
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「飛躍」の思い出  音楽

「飛躍」の思い出と言ったところで、普通の人には分からないだろう。「跳躍」ではありません。

実はこれから述べる「飛躍」とは、久本玄智作曲の「飛躍」の事である。

長くなるので独立した文章にしたい。
私が大学3年生の頃、飯田市の箏の先生のおさらい会で「飛躍」を箏と合奏した。
その「飛躍」を又今、妻の門下生と合奏しようと言う話が出て来たのだ。

私の頭の中では年中「飛躍」のメロディーが鳴り響いている、と言うくらい印象深い曲である。ある程度は覚えている。

しかし、楽譜を探してみたら無い。発行元の出版社はもう無いと聞いていた。
仕方ないからYouTubeで他人の演奏を聴いて、楽譜を書こうかなと思ったくらいだ。

ところが救世主が現れた。琴古流楽譜を扱っている竹友社が販売している情報を得て、やっとこさっとこ手に入った。

解説では尺八、箏二重奏曲で洋楽のロンド形式。
快活な旋律によって飛躍の気分を表した曲。
近代的な感覚をもった曲で、特に若い人に喜ばれている。

しかし、作曲は1931(昭和6)年で、戦前であり、私は未だ生まれていなかった。

飯田市の箏の先生とは故駒瀬竹子先生である。当時で80歳くらいだったろうか。
知り合ったいきさつの話をしよう。

高校生の頃は自転車で学校まで通っていた。
自宅のある旧飯田市は段丘の上にあり、高校は段丘の下側であるから、行きは広い崖路をスピードを出して下りて行く。

帰りは大変だ、立ちこぎで行きの道を全部は上がれない。途中で横道を行くことになる。

飯田市は碁盤の目のような道路になっており、その後はどこの道を通っても自宅に帰る事が出来る。縦の道が坂になっており、横道はほぼ平らである。

ある時、仲之町なる道を通りかかった時に箏の音が聞こえて来た。高校時代は吹奏楽班だったので未だ尺八に興味はなかった。

ところが、大学に入ってなんと尺八を手にしたのである。
そこで夏休みに駒瀬先生宅を訪ねたのが始まりじゃ。

先ず大学1年生頃から、「六段の調べ」や「千鳥の曲」などの合奏をしてみた。
私が行く時には門下生の上手な人も呼んでくれて、夏休み、正月休み、春休みなど通った。

「ゆき」も先生と合奏したのを覚えている。
そして大学3年の夏休みだろうか、先生のおさらい会で「飛躍」を可愛い小学生とも合奏したのだ。

大学3年生の時は当時あった「太宰楼」の舞台で演奏して、終了後は記念撮影して、打ち上げ。

大学4年生の時は「三宜亭」で演奏と打ち上げを行った。先生から「あなたは学生さんだから、無料で良いよ」と言われた。ギャラは無くて7万円の接待では無い。可愛いものだ。

「三宜亭」では母も親類のおばさんも聞きに来てくれた。
地元の尺八演奏者もいて、酒を飲んだが「健康第一に気を付けてくれや」と言われた。

そのおさらい会で知り合った尺八の中川青童氏に誘われて、正月に市田(天竜川舟下りの出発点)のご自宅に伺った事がある。

当時は75歳位のお爺さんで、尺八の練習ノートを見せてくれてびっくりした。

上段に地唄の曲名が書かれており、その下側に練習した回数の「正」ちゃんマークがいっぱい書いてあったのだ。「八重衣」などかなりの練習回数であった。

正月だから酒、肴もいただいた。
話を伺うと、息子さんも尺八を演奏しており、「息子の残月の演奏テープだ」とカセットテープをいただいた。

驚いた事に箏が小林玉枝、三絃が井上道子だから凄いメンバーだった。
帰ってから何度も聞かせてもらった。息子さんは未だ私にとって見知らぬ人だった。

ところが、その息子さんに東京で7〜8年前に偶然縁があって、一緒に飲んだのである。
しかも、その時のテープをお返しをした。(本当は頂いた物だが)

聞いてみれば私の高校の先輩であり、ちょうど10歳年上だった。本当に不思議な出会いだった。

再び中川青童氏の話である。ほろ酔いかげんで中川宅を出たのだが、もうすっかり暗くなっていた。私の実家は街なかで街路灯がついて明るい。

しかし田んぼの中を通ってJR飯田線の市田の駅まで行くのに、月も明かりもほとんどなく、手探りでやっとこさっとこ市田駅に着いたのだった。側溝に落ちなくて良かったと思ったくらいだ。

東京に戻って当時の青木鈴慕先生に、たまたま何かの時に中川氏の話になり「中川さんは地元で邦楽を広めている大変な功労者だ」と褒めていて、先生までも知っていたとは、どこかで繋がっているのだと思った。

駒瀬先生は品の良いおばあちゃんで、カメラが趣味だった。
私が23歳の頃、つてがあって尺八の門下生が一人出来た。そのYさんも連れて夏休みに浴衣を着て駒瀬先生と合奏し、写真も撮っていただいた。

話がどんどんそれるが、合奏を終わって私の中学の同級生Mさんが経営する居酒屋に行った時の事である。

たまたま彼女に尺八を聞かせようと他のお客様に許可を得て、「仁義」などを演奏したところ、あるお客さんが言い寄って来た。
その人に、えらい褒められたのである。

聞けばT設計事務所の人で、元はテイチクだかのミキサーをしていたから、耳は確かであった。話が合って、ごちそうになり、その上「芸者置屋に行こう」と我々二人を誘い出し、ある料亭に行ったが、もう遅く皆帰ってしまったらしい。

大広間で女将さんと4人で世間話をして帰った。ドラマになりそうな、こんな事を思い出した。

駒瀬先生は趣味のカメラで展覧会をしたり、講演をしたらしい。地元の新聞に掲載された。
その頃、先生と年賀状のやりとりをしていたが、駒瀬先生が講演の最中に突然倒れ、そのまま亡くなったみたいだ。

その事が載った地元紙を母が送ってくれて知ったのだが、暮れも暮れ25日頃の事で、要領の良い先生はもう年賀状を私に出していたから、亡くなった先生から年賀状が届いたのである。

妻を連れて紹介をした後だったので、私が30歳過ぎの話である。合掌。
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YouTubeで邦楽  音楽

YouTubeで邦楽の演奏がかなり増えてきた。
大先生達の貴重な映像などもアップされて、参考になる。

最近、藤本昭子の演奏を見た。かなりの数のアップで全てが素晴らしい。

藤本昭子は人間国宝だった藤井久仁江の娘である。(阿部桂子は祖母に当たる)

特に宮城道雄作曲「春の夜」は箏本手藤本昭子、箏替手塚本徳(めぐみ)、尺八田辺頌山の演奏には感激した。

この曲は名曲中の名曲だと思う。
塚本徳さんはNHK育成会で私と同期であり、私のリサイタルでは舩川利夫作曲「箏四重奏曲」の賛助をお願いしたし、木犀会では岩城弘子さんと共に「春の夜」を演奏した仲だ。

この曲を演奏会にかける時、青木鈴慕先生に習い「暗譜で演奏する」旨話したら、目の色を変え「いつ演奏会だ?」と演奏会に来ていただいた。それ程の曲だ。

田辺頌山は都山流の奏者だが、よく考えた演奏で所どころ琴古流の手である「ウ」を使用して陰にこもった音色を聞かせる。

速いところはチのメリのままで、その使い分けが素晴らしい。

それにしても誰か、尺八の稽古の映像を流してくれると、初心者には分かり易いだろう。
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「じゅん散歩」で別府温泉  旅行

1月下旬、テレビ朝日で「じゅん散歩」を見たが、大分別府温泉だった。

以前個人旅行で行ったのだが、詳細を思い出せず大変懐かしくなり、メモ帳を探してみたところ詳しくは書いてない。詳細は多分リポート用紙に旅行記を書いたと思うが見つからない。

メモ帳によると時は元禄いや違う、1991(平成3)年の5月であった。
忘れられないのは会社卒業旅行の九州一人旅であった。少しづつ思い出して書こうと思う。

会社は自己都合により5月10日に退職した。その日は送別会を開いてくれて関係者と2次回まで飲んでいた。

当時は大和市つきみ野に住んでおり、翌日朝早く起き東京駅までは遠かったのでつらかっただろう。朝8時4分発の新幹線ひかりで先ず小倉に向かった。そこから急行で別府に15時20分に着いた。

行きの新幹線や、急行列車、宿泊ホテル、帰りの飛行機はあらかじめ、旅行会社に申し込んでいた。
別府についてすぐに定期観光バスで温泉めぐりを申し込んだ。15時30分発。

著名な七つの地獄温泉をめぐるバスだったが、私を含めて4人だけだった。その内一人は京都大学の教授で名刺をいただいた。

コースは、海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄の7地獄を見た。
海地獄のコバルトブルー、血の池地獄の赤、龍巻地獄の間欠泉は凄かった。

ここに来たかったのはOさんに会うためだったが、小さい頃、祖父の龍巻地獄のところの写真を見てどんな所かを見たかったからでもある。祖父は着物姿で山高帽をかぶっていた。

間欠泉は100°Cを越え、30メートルも噴き上げるそうだが、天井がありそこまでだ。
諏訪湖の間欠泉を思い出すが、諏訪湖は天井が無い分もっと高く上がる。

もう夕闇迫り、薄暗くなってきた。

18時バスから降り日伯ホテルで、会う約束をしたOさんに電話をした。その頃は未だ携帯電話は持っていなかった。(1996年頃やっとPHSを買った記録があった)
OさんはTインダストリー光町の店長であった。

OさんはNCR米国流通業視察の際、自由時間をご一緒して同じグループで回っていた仲間である。

特にニューヨークでの「自由の女神サンセットクルーズコース」は私の会社の2人と彼だけだった。その時の沈みゆく夕日、下から見る大きな自由の女神、生バンドによる演奏が忘れられない。ウエストサイド物語の「アメリカ」が耳に残っている。

多分酒も料理も飲み放題、食べ放題だったろう。ローストビーフを何度も取りに席を立った。

別府ではOさんにホテルに迎えに来ていただいて、一度ご自宅に伺ってから、ものすごい付き合いが始まった。

先ず「栄鮨」で酒と寿司、彼行きつけのスナック、それである程度は出来上がっていたのだが、彼の友人が経営していると言うホテルで大きな温泉に入る。(顔パスみたいだった)気持ちが良かった事を覚えている。

温まって出てさらに「お好み焼き」に行ったのだ。ただ温泉は覚えているが、食事は全然覚えていない。

よく付き合ったと感心するが、メモを見て驚いた。午前3時にホテルに着いたのだった。
今ならコロナ騒ぎでとんでもない事だ。

翌日は9時30分のバスで熊本に向かうのだ。

モーニングコールをお願いして翌日は6時30分に起きた。多分眠かった事だろう。

ここで別府とお別れするが、多少旅行について書こうと思う。

別府から「やまなみハイウェイ」のバスに乗り、阿蘇山に向かう。雨で窓の外が余り見えない。

バス内でいただいたパンフレットに掲載されていた三好達治の詩は未だ覚えている。
調べると「大阿蘇」で調子が良い。

 「雨の中に 馬がたつてゐる 一頭二頭仔馬をまじへた 馬の群れが 雨の中にたつてゐる 雨は蕭蕭(しょうしょう)と降っている 馬は草を食べてゐる」以下略

ちょうど外は雨だから、阿蘇カルデラの中でぴったりの風景だった。

ロープウエィで阿蘇山に立ち、火口を上から覗いたり、シェルターの中に入ったり、阿蘇スーパーリングでは火口の噴火の映像と、もの凄く迫力ある噴火の音に圧倒された。
「ドンドンドンドン」と重低音が足から伝わってくる。これは忘れられない。

熊本では居酒屋「五右衛門」で馬刺し、きびなご刺身、カレイの唐揚げ、とり団子など飲んで食べたようだ。

以前に1回熊本に来ており、その時は熊本城や水前寺公園を見ていたし、夜行った「肥後っ子」なる居酒屋は良く覚えている。「肥後っ子」を横目に見て、違う居酒屋を見つけたのだ。

そこの座席はコの字になっており、真ん中で炭焼きをしていた。そして大きなしゃもじで注文した品が客席に届けられた。

鹿児島では錦江湾公園から桜島を望み、その後桜島に渡り、周遊バスに乗って、帰りに火山灰で作った猪口を記念に買ってきた。今でもたまに酒を飲むときに使う。

宮崎でも観光バスに乗り、巨人が春のキャンプ時に行くという青島神社にお参りした。
青島に行く途中は鬼の洗濯板と言われる岩が波状になっており、タモリが好きそうだ。
海がとてもきれいだ。

今年の巨人には桑田投手コーチ(今では息子のMattの方が有名か)が就任して、その指導力が問われる。

バスが通る道路には大きな椰子かシュロの木だと思ったら、フェニックスだとガイドさんが教えてくれた。いつも台風のテレビ画面ではフェニックスが大きく揺れる様を見せてくれる。

宮崎の居酒屋「橘酔」では刺身の他に郷土料理「冷やし汁」を初めて味わった。
冷やしたみそ汁に薄く刻んだきゅうり、唐辛子、ゴマが入っていた。確かに美味だと思った。

自宅への土産は手で持ち、実家へは宮崎の名物の大きな竹輪を宅急便で送った。
ただし、後で母からクレームがあった。余りにも数が少なかったようである。

こうして5月15日5日間の九州一人旅を終え、14時45分宮崎空港を飛び立った。
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寒中休みでスケート  スポーツ・健康

私が小学生や中学生の頃には、今頃寒中休みが1週間ほどあった。
信州の冬は寒い。夏休みが少なく、その代わりに寒中休みがあった。今では無いようだ。

夏休みはお盆が過ぎるともうすぐに2学期が始まるという感覚で、9月1日のNHKニュースで「今日から新学期」を見ると違和感を覚えた。

寒中休みで思い出すのはスケートである。我が家の狭い庭でも、雪が降った時に長靴で雪を踏みしめ固めて水をまき、朝には氷にして滑った。たかが2〜3メートルだが、練習にはなったようだ。

小学校の中庭も同じようにスケート場を、先生たちが作ってくれた。
当時は下駄スケートで、足袋に紐をきつく結びつけるのだが、痛いしこの上なく足が冷たい。

中学の頃には皮靴のスピードスケートを買ってくれて、やっとスピードが出るようになり、市内の堤、松川プール、沢城湖、七久保にあった仙人塚、そして電車に乗り、諏訪の諏訪湖、白樺湖、蓼ノ海まで父親に連れられて兄弟も一緒に滑った。

市内の堤には歩いて行けたが、沢城湖はバス、七久保は駅までは電車でそこからは歩いて行った。一度は妹もつれて七久保の親戚に泊まり、いとこも一緒に滑ったが、やはり地元のいとこの方が早くうまかった。

諏訪湖に行くには電車で2時間はかかる。早朝父親と共に諏訪湖に向かったが、広いとは言えスケート場は極一部だ。
しかし、ロケーションは良い。

白樺湖や蓼ノ海へ行くにはさらに40分位かけてバスで登るから大変だ。
蓼ノ海は国体でも使用されたがとにかく氷が良い。分厚い氷でいわゆる油氷と言って、ツルツルでよく滑る。体重のあるプロならいいが素人だと刃が立たないくらいだ。

結局、蓼ノ海には諏訪で一泊して行った。その時は祖父も一緒に行ったのだが、祖父は着物姿で管理小屋から寒そうに見ているだけだった。

長じて大学に入ってからは長野県人の凄さを都会の人に見せつけた。
大学の三曲研究部で読売ランドに行った時に、400メートルを約1分で滑った。この時が私の人生で一番早かっただろう。(ちなみに現在日本男子の500メートル記録は33秒台だ)

会社に入って部内の旅行で「小田急ファミリーランド」に行った時は「賭け」までやると言われたが私が降りてスピードを競ったが、結局私が一番だった。

都心では子供達も連れて渋谷のオリンピックプール、後楽園、読売ランド、向ケ丘遊園、新横浜、二子玉川園、相模原市の「銀河アリーナ」、子供の国などに行き、滑り方を教えても来た。

ただ、都心のスケート場は狭いのでロングのスピード靴は無く、ホッケー用だった。それが私には不満であった。

滑っていると初心者が長いコートをひらひらさせて滑っていると、スピードに乗った私は前が見通せなく、いつもヒヤッとした。
周りのスピードを見ながら滑って行くので、人込みをうまくすり抜けて行くのがうまくなった。

子供の国は何回も行ったが、結構小学生がクラスごとに来ることも度々あり、カッコつけて手を後ろに組んで滑っていると「カッコいい」と聞こえてきた。十分満足した。

子供が小学生の頃だった。二子玉川園にもスケート場があるのを見つけて家族4人で行った時の事、私は例によってスピードを上げてカッコよく滑っているつもりだった。

そして止まる時は制動をかけ斜めに止まるのが普通だったが、そのまま壁に激突した。
その時両手と胸で受けたので、胸と両手にかなりの衝撃を受けた。

結局、胸と両手を打撲して、医者に通う事になった。胸苦しいし手首が痛い。

時々手に重いものを持ったりするときは、その後遺症が出るのかもしれない。手のひらの付け根に痛みが出る。

バカな事をしたもんだ。後悔先に立たず。



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緊急事態宣言と営業時間短縮  随想・日々是尺八

1月7日に政府から緊急事態宣言がなされ、百貨店、スーパー、飲食店など軒並み営業時間短縮に追い込まれた。

NHKテレビを見ていると、画面の上部に各百貨店などの営業時間が表示され、ほとんどの店が応じている。

振り返れば、私が会社に入社した時のスーパーの営業時間は午前10時から午後6時30分であったから、まさに昔に戻ったようだ。

当時のT百貨店の営業時間は10時から6時で、毎週定休日があった。

私のスーパーはT百貨店の子会社で勤務時間は9時45分から6時45分までで、当然定休日は毎週あった。

事務員だったので、夏ごろには未だ明るいうちに退社出来て、上司も独身だったので週3回くらい近くの居酒屋で飲んでいた。

その後は経済もどんどん発達して、だんだん営業時間は長引き、定休日もほとんど無くなり、社員はシフトで休みを決めていった。

そんな訳でテレビの画面を見て、懐かしさで当時を思い出した。
まさかこういう時代になるとは、予想だにしなかった。

昨年から続くコロナ禍で、飲食店などの閉店が続いている。

おさらい会などの後、門下生をよく連れて行っためじろ台駅前の「バーミアン」が1月11日に閉店した。誠に残念である。

「バーミヤン」や「ガスト」「夢庵」「藍屋」などは「すかいらーくグループ」である。

以前勤めていた会社は、まだ「スカイラーク」という店舗がある時に、テーブルや椅子を納品しており、最盛期は次から次へと出店で売り上げは凄かった。もう40年ほど前の話である。

テレビを見ていたら知っている店が出た。

八王子の高尾から陵南方面、甲州街道沿いにある「魚心亭(うおしんてい)」である。
大将がコロナ禍の中、海鮮丼にこれでもかと丼からはみ出すほどの大盛りの刺身を乗せていた。

私は何回か行っているのだが、最初に入った時の注文が「まかない丼」だった。注文に対して大将が「うまかないけどいいか?」と聞かれてびっくりした。

どうも名物大将らしく、次に行った時は「うまかない丼下さい」と言ってみた。笑われた。イやな客だね私は。

今頃になるといつも思い出すのは、昭和47年1月の浅草国際劇場での「北島三郎ショウ」へ出演した事だ。

調べたところ1月14日から1月23日までの10日間で、平日は1日2回公演、土日は1日3回公演とハードだった。従って49年前の今頃(1月20日現在)は公演中だった訳だ。大入り袋にはハッキリ1月23日千秋楽の印刷がある。全公演満席の大人気だった。

もう開演時間は何時に始まったか思い出せないが、昼休みには仲見世に通って昼食をとった。
ある飲食店に入った時「北島三郎ショウ」を見た観客らしい家族がおり、つい声をかけてしまった。「今の北島三郎ショウの尺八を吹いたのは私です。いかがでしたか?」と。
今考えるとアピール性が強かったなと思う。

その頃の仲見世の混雑状況は凄かった。昼食を終えてかろうじて次の公演に間に合う程だった。
ステージでは紋付き袴の着物姿なので着替えが必要で、支度も忙しい。

今は閑散とした浅草の状況をテレビで見るだけだ。
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最近、物が壊れる  随想・日々是尺八

最近、物が壊れる。

身の回りで物が壊れる。何かの前兆だろうか。

その@、10月に右上の虫歯を治したばかりなのに、12月始め突然口の中に硬いものをかんで、吐き出した。金属の詰め物だったが、その時は何故か他人を疑った。

自分のは鏡をのぞいたが異常無いと見なして、その金属を一度は捨てた。翌日どうも私の右下の詰め物のようだと拾いなおして、後日歯医者に行った。
結局その場所で、詰め物をクリーニングして、はめなおした。

そのA、結婚する時に買った腕時計は、5〜6年後T百貨店で電池交換の際、無くされてしまった。
それで、同等の新品の腕時計をくれたのだ。

その腕時計も経年劣化で、新宿で商売をしている頃、電池交換のサービスを請け負っており、メッキも出来たのだ。それで金メッキをしてもらって、きれいになった。

それも今では大分剥げて来たので、腕が見えない冬にだけ使用していた。
5日図書館からの帰りに長袖をめくって時計を見たところ、ガラスが無く、針は止まっていた。

しかもこの時計は4日前に電池を交換したばかりであった。何という不運だ。
100年は持たなかったが、約36年間休まず動いてくれたのだ、感謝する。

その後、ついでがあったのでその時計店に伺って、事情を話し「もうこれはダメだ」と言うことで、店主に「何か部品として使えるならば使ってください。電池も新しいし」と渡すと、お礼として?長さ10センチの携帯用LED照明をくれた。これは便利な「懐中電灯」である。

そのB、べつに壊れた訳ではないが、洗面所の点灯管が突然つかなかったり、翌日にはデジタル体重計の電池が切れた。その前、電話機子機のバッテリー切れで新品を取り寄せた。急に変化が身の回りで起こっている。

12月18日バスに乗っていて追突事故にあった。
八王子に行く予定で、めじろ台からバスに乗り、2停留所目の前の信号待ちで止まっていたところ、「ドン」とバスが前のめりになった。

エンジントラブルかなと思っていると、車内放送があり、追突事故らしい。後部座席にいたので後ろを覗くと、乗用車が止まっていた。80歳くらいの爺さんがぶつけたようだ。

私はあわてて降りて、後部を見ると双方へこみは特になかった。
ちょうど白バイが走っており、パトカーも割と早く来たが処理に時間がかかると思って、めじろ台に向けて歩き出した。振り出しに戻ったのだが15分位かかった。

予定を変更して西八王子行きのバスに乗った。冷静に考えれば、大した事故ではなかったので、それ程時間はかからなかったろうにと思い直した。

軽い衝突だったので、幸いむち打ち状態にもならず、あの時猛スピードでぶつかっていたら、一瞬で命を無くしたと思うとゾッとする。

24日、しばらく使って無かったプリンターで印刷しようと思ったら、インクジェットの黒がほとんど無く、印刷できなかった。あわててネットで調べたが、どこも掲載されていなかった。

買って2年程だからまだあるはずだ、と八王子に出かけてヨドバシカメラで購入出来た。
プリンターの品番を調べてあり、従業員に聞いたらすぐに見つけてくれた。自分で見つけるより早い。

しかし、機械に弱い私はセットの仕方に四苦八苦。メーカーのネット上の説明でやっと取り付け完了。やっとの思いで印刷できた。

又新年早々、歯と歯の間にピスタチオの殻が挟まり、自分では取れなくなった。

バカな私は新聞を読みながら、ピスタチオとナッツ類を食べていたのだが、たまたま手にしたのを見なかったら、ピスタチオの殻までかんでしまった。

あわてて吐き出したのだが、その時は気がつかなかった。

しかし、歯の裏側に飛び出した小さな殻は自分では取れなかった。非常に気持ちが悪い。触ると舌が痛い。

これはすぐ歯医者に行かなくてはと、予約なしで診てもらった。結局歯を少し削り除去したのだが、詰め物をする事になった。こうして段々歯が削られていくのかとうんざりする。
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高尾山頂の変化  散策・ハイキング

12月7日、今年最後の高尾山行きである。
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この日はたまたまリフトが運休で、ケーブルカーで登った。
知らなかったが偶然にもこの日は薬王院の新貫首の入山式で、ケーブルカーに同乗した。まさかこの日で同じ時間に遭遇するとは思わなかった。

中央が佐藤秀仁僧正(50)である。

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貫首の交代は27年ぶり。前任の大山隆玄大僧正(86)は体調不良で退任した。


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この日は高尾山頂上から「もみじ台」に行く予定を立てていた。
高尾山頂上から見える富士山と、もみじ台から見える富士山はほとんど同じだったので、もみじ台の写真をアップする。

紅葉はまだまだ綺麗だった。


11月16日は高尾山の琵琶滝コースを登った。
迫力のない映像だが、いよいよ沢を登るところである。

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このところ雨はしばらく降っていないが、結構道中は水に濡れていた。
やはり行楽日和で、次から次へと登ってくる人が絶えない。

最後の階段はヒイコラ言って、休み休み登ったから、かなりの人々を見送った感じだった。

やっと11時40分頃頂上に着いたのだが、残念ながら富士山は見えなかった。
紅葉は今盛りなり。

頂上を越えた所のいつも行く広場の椅子に座れて、おにぎりと朝私が作った玉子焼きを食べた。
玉子焼きは白だしとみりんを入れたが、少し白出しが多かったようだ。

高校の頃の弁当は母が作った玉子焼きが旨かった。塩と砂糖、それに日本酒が入っていたが実に旨かった。あの味は市販のものでは食べられない。

帰りは薬王院経由のリフトで帰ったが、ゴールデンウィークのようなものすごい人だった。


こちらは11日の高尾山である。


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ここは薬王院から登ったところの鳥居で、紅葉真っ盛りである。




高尾山頂上もモミジが今一番で、登山客も平日にも関わらず、混雑していた。(午前11時頃で、たまたま人が写らなかった。)

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今年何回か登ったが、やっと一番の富士山が見えた。


好天に恵まれた10月26日、高尾山に登って来た。

やっと晴れ間が続き、土曜日曜を避け、空いていると思った月曜だったが、皆がそう思ったのか、予想より混んでいた。

山行きに青のチェック柄のシャツを買った。何故山行きにはチェック柄が多いのか、分からない。(調べると自然に無いから目立つ為とか、汚れが目立たないからとか、らしい)

皆を見ると、やはり半数位がチェック柄である。

いつもの通り、往復リフトである。前日に足の筋トレをした為か、翌日なんともないのである。

それでも登りはゆっくり、休み休み登った。11時過ぎに山頂。少しづつ紅葉が始まっている。

高尾山頂に着くと必ず標識を見る。ほとんどの人が写真撮影をするから、独占して人を写さないのは難しい。毎回感じるのが、この標識の経年劣化だ。


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この撮影は2015年4月。急いで撮ったら下側しか写っていない。標識はとてもきれいだった。

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これは2016年11月撮影。下側が剥げてきた。

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そしてこれが2020年10月26日である。比較すると、かなりの汚れ具合が分かる。

日本遺産になり、皆が集まるので、早いところペンキを塗り替えて欲しいな。

山頂からいつも富士山を見るのだが、残念ながら雲がかかって全然見えなかった。

余談だが、最近のテレビでの芸能人は「全然いい」と発言するが、全然良くない。

なんでもヤバいの連発も、出川の影響か、やめてもらいたい。本当にヤバいから。

この日は14000歩であった。万歩計には万歳、万歳と手を挙げる表示があった。


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