「北島三郎ショウ」への出演  音楽

昭和47年1月、浅草国際劇場(現浅草ビューホテル)において「艶歌のすべて 北島三郎ショウ」が10日間催された。(1月14日〜1月23日)平日は2ステージ、土・日は3ステージもあった。

出演依頼のキッカケは、尺八仲間が本来1人で演奏するところへ、たまたま本人は期間中にNHKオーディションに合格したので、「録音のために1日だけ代わりに尺八を吹いてくれ」と言うことだった。

公演の前日午後がリハーサルで国際劇場の稽古場に行き、楽団に挨拶をした。そこで初めて楽譜を戴いた。曲は「仁義」「盃」「誠」と劇中音楽「沓掛時次郎」の中の「信州鴉」であった。
尺八仲間は故郡川直樹(1949〜2014)で私と同年齢の23歳であった。
「仁義」のイントロは尺八の独奏で、尺八本曲風なので気持ちがよかった。2人で演奏のため私がメロディを演奏して、それに答えるようにハモリを郡川が担当した。これは郡川のアイデアであった。

やがてサブちゃんこと北島三郎が見えて挨拶したところ気さくに「全日2人で演奏してくれや」と言われた。若造1人では多分心配だったと思う。
リハーサルで気が付いたのは「信州鴉」は2尺1寸管でないと、奏法上うまく吹けない。そこであわてて青木鈴慕先生宅に伺って事情を話して尺八をお借りしたのである。

その夜は国際劇場へと泊まり込み、当日は朝5時に起床ベルで起き、本番さながらのリハーサルを行った。そしてもう10時過ぎには開演だから忙しかった。

国際劇場と言えば信州飯田の中学3年時、東京への修学旅行で「SKD」ダンスを見た、あこがれの場所。そこへ8年後に舞台に立てるとは思わなかった。感激したが予想以上にうまく伴奏が出来た。
場内3000席がすべての公演で超満員であり、すごい熱気であった。

前座は瀬川瑛子で「長崎の夜はむらさき」を歌った。背が高く、すらりとしていたのが印象的で、その後はテレビにも出ていなかった。私はすっかり忘れていたが、何年か後「命くれない」
(1986年)で大ブレーク。それで当時の事を思い出したのだった。

私達でもギャラは1日1万円。所得税を引かれても手取り9万円にもなった。その後尺八だけでは生活が出来ず、サラリーマンになったが4月の初任給は54300円だった。

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千秋楽を終えて「大入り袋」をいただき、中身は5円玉。その日のうちに郡川に「お世話になった舩川利夫先生宅にお礼に行こうぜ」と言われ、それぞれ1万円づつ用意して千葉県のご自宅に伺った。炬燵で酒盛りが始まり、結局ザコ寝した。

翌朝、先生はそのお金で正月気分が残る近くの盆栽展に行って松を買い、それを玄関に飾った。

その後は、今日まで余興で「仁義」を何度吹いたかわからない。北島三郎が現在もずっと第一線で人気があり、活躍しているお蔭で、私もいまだに演奏が続けていられるのである。
今年の高尾山の豆まきに北島三郎が出ると知って、初めて行って見た。本人を見るのは実に43年ぶりだった。

舩川利夫(1931〜2008)は作曲家であり、尺八演奏家、筝曲演奏家だった。郡川直樹は昨年突然亡くなった。あの頃、酒好きで「俺は酒で死んでもいい」と言っていたが、まさかである。脳溢血らしいが残念である。




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