2016/3/20

甲子園で高校野球  スポーツ・健康

春の選抜高校野球が始まった。

夏と違って各県代表ではないので盛り上がりが無く、知らない間にもう決勝戦かと思う時もある。

私は信州出身だし地元を応援するのは当然だろう。何しろ生まれて高校生までの18年間を過ごした場所である。
さらに、神奈川県大和市に28年間住んでいたので神奈川県も応援するし、現在の西東京も応援する。
特に長野代表は肩入れするが、今回は残念だが出ていない。

夏の場合は地方大会からよく注意して、新聞などでチェックしている。

会社勤めの頃、先輩に「長野県は出ると負けだなぁ」とか、「長野県は松商学園しか無いのかよ」と散々バカにされた。大変悔しい思いをしたものである。

夏の甲子園で印象が強いのは、池田高校やPL学園、横浜高校である。
PL学園のKKコンビで毎回のように優勝している時、会社では「プロ野球の最下位チームより強いのではないか」と言う話が出た事もあった。

夏の甲子園決勝戦では様々な名勝負があったし、ドラマもあった。思い出に残る試合は、

1969年、井上明投手の松山商業対太田幸司投手の三沢高校で0:0で引き分け、再試合となって4:2で松山商が優勝した。
この時は私は大学生で、アルバイトをしながらラジオを聞いていた。
太田投手を応援していていたので残念だった。

1980年、愛甲猛投手の横浜高校対荒木大輔投手の早稲田実業は6:4で横浜高校。
愛甲の大きなカーブが面白いように決まり、荒木は大輔ブームとなる。

1983年、桑田真澄投手のPL学園対横浜商業は3:0でPL学園。
桑田投手は1年生だった。

1985年、やはり桑田真澄投手のPL学園対宇部商は4x:3でPL学園。

1992年、星稜高校は松井秀喜が2回戦で、明徳義塾に5打席連続敬遠されて敗退した。
明徳義塾の馬淵監督は、いろいろ非難されたが「相手には1人プロがいた」と言ったらしい。
松井のコメントは淡々として、悔しさを隠し、その態度が大物を思わせ、プロで花が開いた。

1998年、松坂大輔投手の横浜高校対京都成章は3:0で松坂大輔はノーヒットノーランだった。
その前の準々決勝は17回までの凄いシーソーゲームで、7回から登板したPL学園の上重投手との投げ合いは手に汗を握った。横浜高校は史上5校目の春・夏連覇だった。

2006年、齋藤祐樹投手の早稲田実業対田中将大投手の駒大苫小牧で1:1再試合となり、4:3で早稲田実業が優勝。齋藤はハンカチ王子と愛称が付いた。
この時点で田中は負けたけれども、素質は齋藤より上と評価されていた。

名監督は池田高校の「攻めダルマ」こと蔦監督、PL学園の中村監督、取手二高・常総学院の木内監督、横浜の渡辺監督、明徳義塾の馬淵監督、智弁和歌山の高嶋監督を上げる事が出来る。

再び春の選抜高校野球に戻ると、実は輝かしい優勝をしたチームが飯田市にあるのだ。
長野県をバカにしないでくれと言いたい。

1954(昭和29年)4月、飯田長姫(おさひめ)高校は身長157pと小柄で左腕の「小さな大投手」と称された光沢毅を擁して、第26回選抜高校野球大会で全国優勝を遂げた。

当時はラジオしかないから、飯田市民はラジオにかじり付き、あれよあれよの快進撃にやんやの喝采の声を上げたと父から聞いた。

優勝パレードとして市中行進をした時、父はカメラ好きでバシャバシャ撮ったようで、白黒写真を見た覚えがある。

我々の年代以上の人は結構、飯田長姫高校が優勝した事を知っていて、こちらがビックリする位で鼻が高くなったのは事実だ。

光沢毅氏は明治大学から三協精機に入社して野球を続け、甲子園の高校野球大会ではNHK解説者として長らく名解説をしてくれた。
私が小学校の時に、彼の弟がクラスにいたので、親近感が沸きうれしく思っていたが、交通事故により失明されたのは不運だった。

飯田長姫高校の校名は飯田城(別名長姫城)跡地にあったことに由来する。
2013年度には飯田工業高校との統合により、飯田OIDE長姫高校となった。
英字を使用する珍しい校名である。

蛇足だが、もう一つ準優勝を上げておきたい。
1991年、春の選抜高校野球大会で、その「松商学園」が抹消されずに決勝戦まで行ったのだ。
優勝は広陵高校で6x:5だったが、松商学園の投手は「上田佳範」でドンドン勝ち進み、ついに優勝寸前まで行ったのだ。

会社で興奮したのは言うまでもない。松商学園をバカにしないでよ。PlayBack。

彼はその後プロになり、ドラフトで日ハムの外野手、そして中日でも活躍した。
今期はDeNAで一軍外野守備走塁コーチをしている。
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