2005/4/17

1998年4月17日  Paul McCartney

ポール最愛の妻であったリンダが亡くなったのがこの日。
今日は命日である。

リンダの訃報を聞いたのは確か月曜日の朝だったと思う。
出勤前に観ていたテレビで知った時の衝撃は今でも忘れられない。
訃報とは裏腹にベランダ寄りの窓から差し込む春の陽射しが
とても眩しかったのを憶えている。

ちょうどその頃ワタシの母は体調に異変が起きていた。
そのため病院で精密検査を受けていたが
この日は母の病状について医師に会い説明を聞く日でもあった。

そして母は病院で医師から癌の宣告を受けたのだった。
「もしかして・・」とは思っていたが
いざ本当のことを聞くとやはりショックだった。
今思うと母が亡くなった時よりこの宣告の時の方が
ワタシにとっては辛い一瞬だった。
朝にリンダの訃報を聞き午後は母に癌の宣告。
暖かい春の陽が恨めしかった。

それでも母の闘病中はいつもリンダのことを考えながら
(リンダのように母も頑張ってるんだと思いながら)
毎日の病院通いも苦にならなかった。
母も苦しい治療に耐え病状が好転したので幸い秋には退院できた。
しかし翌年3月に母は再び入院、そのまま帰らぬ人となった。
リンダの訃報を聞いてから約一年後のことだった。

毎年4月の今頃になるとリンダと母のことを想い出す。


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2005/4/26  0:28

投稿者:torami

昨日は悲惨な事故がありましたね。そういうことがあるたび毎日を大切に生きなきゃって思うんだけど、実際にはそうできてないです。ダメだなぁ・・・。

ザウルスさんも大変だと思いますけれど、応援してます、キモチだけは。一生懸命な人には必ず味方してくれる人がいる、そう思います。また来てくださいね。

2005/4/25  12:02

投稿者:ザウルス

献体という選択はいいですね。
僕も自分の時、眼球提供をしようかと考えたことあります。
その後ドナーカードとかそれを取り巻く一時期の混乱で静観したけど、これは提供する意志とかとは無関係のメディア対応等の問題だったものね。
提供者の意志、決意自体はそれ以前も以後も基本的に変わるものではないからね。

僕も父の時の治療方には大きな過ちと後悔があります。
当時、その効果を期待されていた「免疫治療法」を行ったのですが、20年前の時点の効用はまだ完全でなく、延命という実績は治癒とは違うのだという事を僕自身理解できていなかったです。
治すのだ・・という焦りはそのわずかな延命期の間、反応熱でよけいな苦しみを与えていた結果となった。
toramiさん、やっぱり僕も「その時」うまく出来なかったよ。

時代として治せるようになった現代と違うから、その後の僕の考えは人の寿命や人生ってその絶対的な長さなど問題でなく、その時間の濃さだと思うよになったのはそこあたりかな。
不治の病なら時間的に生き長らえるんじゃなく終わるまでの過ごし方、あり方こそが重要・・みたいな。

・・んなこと言いながら残された母親とはやっぱり仲悪くて、どうにかせねば、と思ううちに軽度ながらアルツハイマーの症状が出始めて・・ケースは違うながら同じ撤を踏んでいるのかな、なんて・・。
でも軽度なので普段は普通で、根気よく接していくと昔どうりの・・頭くるほど理屈っぽい「ソレ」に戻る。
働きかけるなら今だなって・・
それが実家と東京との距離と、究極の局面を今だ抜けられない職場の状況と、自身の内面に抱えたメンタル面の問題やらでヘトヘトにはなるけど、これってけっこう濃い時間を過ごしてるのかもね!(^-^)
ホントにやりたい事もつたないながらもやれるし、助けてくれる人がたくさんいる。
けっこう良い時をすごしてるよなーって。(^-^)



2005/4/23  3:06

投稿者:torami

いえいえ最初ので大体わかりましたよ、ザウルスさん。
ただワタシには心残りもあるんです。
気丈な母でも、だんだん近づいてくる死への恐怖に耐えられなかったのです。そのせいで母は幻覚に脅かされていました。それに対してワタシはなすすべがありませんでした。もう少し知識があれば、最後の日までゆっくり過ごさせてあげることができたのにと、残念でなりません。

2005/4/23  2:36

投稿者:ザウルス

ごめん!途中でキーボードが反応しなくなり文が半分になって意味不明になっちゃいました。
つなげて読んでね!

どうもしまらない結果になっちゃった!すんません!

2005/4/23  2:33

投稿者:ザウルス

↓下の続き

最後の入院の時、ふらりと病室に行くと介護の母が買い物中で親父と二人になった事が何度かあったな。
会話なんて無いよね。
それまでは口論ばかりだったからね。
「みかん喰うか?」
「うん」
無言で食べる。
そのうち面会時間終わって帰る時、
「オートバイで来たのか?」
「うん」
「帰り、気を付けろよ」
「うん」
みたいな感じで振り返らず病室を出て・・。
その次の時は集中治療室だったと思う。
そんなだったけどそれは濃密な時間だったのかな?わからないけど。
でも、その後、肉親に限らず、人と接する時、その時間は限られたものだと考えるようになったな。
レースのメカニックのまねごとした時も、ピットロードからライダー送り出して見送る時とか・・。
帰ってこない奴いたしな・・。
だから濃密な時間て「今」だったりするよね。

toramiさんの病院に通ってすごした時間の濃さはきっとかなり濃密な時間だったんじゃないかな。
だから苦にならない、そしてその後の人との接し方になんらかの良い変革をもたらしたかもよ、気づかないうちに。




2005/4/23  2:18

投稿者:torami

ザウルスさん、ありがとう。
そうかも知れませんね。
母が亡くなった時も、その後も、涙を流すことはありませんでした。それはきっと濃密な時間を過ごせたからなのかも。
母は自らの意思で献体という方法を選びました。献体すると亡くなってすぐ大学病院の車に乗せられ、そのままお別れなのです。約1年半後にお骨になって戻って来るまで。それにお葬式もいらないと言っていました。
ちゃんと焼場で焼いてお葬式しないと、亡くなったことが自覚できないのでは、と思っていましたが、実際はそうではありませんでした。今でも母がどこかに離れて暮らしているような気がして、かえって心安らかにいられるのです。
母はここまで考えていてくれたのだなぁと、今では感謝の気持ちでいっぱいです。

2005/4/23  1:55

投稿者:ザウルス

これは考え方の一パターンであって、どんな場合にも当てはめられる物ではないけれど、身近な人の人生の終わりに立ち会った時、それも少し時を経て、こんな風に考えたよ。
人それぞれの持ってる幸せの質量は同等である、みたいな・・。
毎日ご馳走食べてたら何食べても感動しないだろけど、災害時に炊き出しの塩味だけの白いおにぎりがメチャ美味しい、みたいな意味で。
肉親が早くに居なくなるのが悲しいのは違いないけど、残された時間は濃密な物になるよね。
その「質量」が一定ならば。
うちも親父の自宅療養期は夫婦水入らずも時を過ごしたらしい。
小さな庭に鳥の餌場作って縁側ごしに野鳥と顔見知りになったり、戦中派だから戦後の混乱期から高度成長期の馬車馬労働時代を経て、50歳代でその時間を過せた代償が病気療養てのがどうなのか、わからない




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